« 質問・53 本心って何でしょう? | メイン | 質問・55 男女の友情って、ありえないのでしょうか? »

質問54・正しい作法って

Q:
釈先生、いつも深く頷きながら拝読させてもらっています。
テレビでよく目にする有名占い師さんが、ずっと指南してきた「正しい神社へのお参りの作法」が間違っていたというニュースを読みました。その方は、男性は「二礼、二拍手、合掌、一礼」で、女性は「二礼、合掌、一礼」といい、「男性と女性のお参りのやり方は異なる」とのこと。女性は拍手をしないものだと多くの女性ファンが信じたそうです。でも、音を立てない拍手は“忍び手”で、葬儀の際の作法だとか。
そこで思ったのですが、「自信を持って間違った」作法での参拝は、どうよくないのでしょうか。宗教における「正しい作法(儀礼)」の大切さって、なんですか?
(練馬区 七星 27才)

A:
ふむふむ、細木数子さんの拍手に関する知識が間違っているという件ですね。各地の神社関係者から抗議が出ているそうです。細木氏やその他マスコミに登場している民間宗教者に関しては、内田先生とのセッション「現代霊性論」で詳述しています(民間宗教者というカテゴリーの定義もその中で話しています)。「現代霊性論」は、いつか文章化され、読んでいただける機会があるのではと思われますので、今回は後半の部分に中心に考えてみます。

宗教において、儀礼は非常に重要な構成要素です。教義・教団と並んで、三大要素のひとつに数えられることも多いです。それぞれの教団や宗派や流派では、それぞれが独自の儀礼体系を構築しています(教団や宗派に特定されていない部分は、その土地その地域の習俗・習慣に沿って出来上がっています。実は宗教儀礼においては、この部分がかなり大きいのですが、それはおいときまして…)。つまり、「正しい宗教儀礼」とは、同じ流れの中に属する人たちの間で共有されている了解事項だということです。ある意味、茶道や華道の作法と同じです。そして、その儀礼体系に沿った行為をするがゆえに、同じ共同体の一員として存在することができます。儀礼やエートス(行為規範)は共同体のバインドなのです。バインドと言っても、それは決して、現在の目に見える共同体だけではありません。これまでその儀礼を行ってきた数限りない死者と、これからもその儀礼を行うであろう数限りない人たちとつながることです。同じ不可知の様式を行為することによって、幻想は共有され、時空を超えたつながりが維持されるわけです。これまでも、そしてこれからも、つながっていく、そしてそれを私は受容し身体化していく…(儀礼は受容性を成熟させる機能を有します)。正しい作法の大切さ、とはそういうことです。ということは、その流れに属さない人には何の意味もないんですね。それが宗教儀礼の特性です。

さて、「自信を持って間違った」作法での参拝がどうよくないか、ということでした。古代インドのブラフマニズムのように、儀礼執行こそがその宗教を支えているというようなタイプの場合、自信があろうがなかろうが、儀礼を間違うのは(その宗教においては)「悪」です。でも、現代社会に生きる多くの宗教では、儀礼を間違うという現象自体をそれほど敵視することはありません。ですから、多くの場合、「よくない」かどうかは、宗教儀礼に対する態度や姿勢によって判断されるということになります。
例えば、流派で催された正式なお茶会に、まったく作法を知らない人が飛び込んきたらえらい迷惑なヤツであることは間違いありません。真面目に礼法を守ろうとしている人にまで迷惑がおよんでしまいます。儀礼はその場にいる全員の行為で成り立っているんですからね。しかし、礼法を知らないことへの自覚と、儀礼がいかに大切であるかがきちんとわかっている人は、たとえその場での正しい儀礼がわかっていなくても、まわりに迷惑をかけることはありません。「儀礼」のカナメが身についているからです。
私は、儀礼への畏敬をもって行為する人が、誤った知識によって「自信を持って間違った」作法で参拝することは非難されるべきではないと思っています(たぶん、そういう人は「儀礼に対するおかしな自信」を持たないとは思いますが)。そうじゃなくて、正しい作法をきちんと知ろうとするモチベーションは低いくせに、ちょっとした情報に振り回されている人が「自信を持って間違った」作法で参拝するのは、「鈍感な人だなぁ」と思います。ちょっと不明瞭な区別と思うかもしれませんが、これは、意外に現場ではすぐにわかります。宗教的身体性が成熟している人は、ちょっとくらい間違った作法でも美しく見事ですからね。

では、今回の細木氏の場合も知識が間違っていただけで非難されるべきではないのでしょうか? いえいえ、そうではありません(結局、この話になってしまった…)。
宗教儀礼は、同じ流れの中でこそ機能するのですから「このように参拝するのが、細木教の信者の作法だ」というのであれば、非難されるべきではありません。信者の人が、その作法を守るというだけの話です(実際、神社本庁は今回の騒動をそのように対応するようです)。問題は、これが神道における正しい参拝礼法だと一般的に敷衍して語ったことにあります(ちなみにこういうことを言うのは細木氏に限りません。結構、たくさん見かけます)。この態度は、「先達と同じ(不可知の)身体行為を手順通りに行う。そして、それはその宗教の根幹に関わる」ということへの無神経、「宗教儀礼は同じ幻想を共有している共同体の中でしか機能しない」という宗教儀礼行為の本質がわかっていないこと、等に起因すると思われます。
それにしても、この番組を制作しているスタッフは、宗教に対していったいどんな考えをもっているのか…。首を捻りすぎて「エクソシスト」のリンダ・ブレアみたいになりそうです(そんな番組の宗教情報を真に受ける人もどうかと思いますが)。

神道の場合は、どうすれば神と交感できるのか、どうすれば神とうまく共存していけるのか、という試行錯誤の結果、整理された様式です。さまざまな体系・地域・土俗の流れをいっしょくたにしてしまい、自分の見解による儀礼を喧伝することは、宗教体系や宗教的人格を踏みにじる大変ひどい行為なのです。この件は、「予言がはずれた」という類の問題とは質が違います。まずは「私の言うことは、細木教の中でしか機能しません」ということを明言する態度が誠実な宗教者だと思われます。また、細木教などない、自分は個人的知見を説いているのだ、というスタンスであれば、なおさら体系化された宗教の儀礼について語るべきではないでしょう。
 
短い文章の中で言い尽せないもどかしさから、悪文になってしまいました。少し意図が伝わりにくいかもしれません。ご寛容を。

こんにちは。ウチダです。
宗教儀礼というのはたいへん興味深い論件で、釈老師とはこのテーマについて一度ゆっくり話してみたいなあと思っておりましたので、老師の上記解釈を伺って「ふむふむ」と深く頷いたことでした。
ぼくも老師とまったく同じ考えで、宗教儀礼の本質は「人間は神を崇敬する仕方や、死者たちを鎮魂する仕方を、ほんとうはよく知らない」という「無知の自覚」に根差すものだと思っています。
もし、「私はただしい神の崇敬の仕方を知っている」という人がいたとしたら、その人は「正しい作法」によって神を喜ばせ、「間違った作法」によって神を怒らせることができると考えていることになります。
だとしたら、神さまはその人の挙措ひとつで笑わせたり怒らせたり、自在に「操作可能」であるということになります。
「人間が自在に扱えるもの」に「神威」を認めることができるでしょうか?
崇敬というのは、「どのように崇敬の気持ちを示してよいのか、私にはわからない」というかたちをとって表現されるものです。
ふだん私たちだって言いますよね。「お礼の申し上げようもありません」て。
英語だってフランス語だって同じ言い回しがあります。
Je ne sais comment vous remercier. I don't know how to thank you.
「感謝の意」は「感謝の意を表する仕方を知らない」という文型を迂回することでしか表することができません。
信仰についても同じことだと思います。
神を崇敬する気持ちは「神を崇敬する気持ちを表する仕方を知らない」というおのれの無知の覚知によってしか基礎づけられない。
ぼくはそういうふうに考えています。
ですから、「こうやってお参りするのが正しい」というようなことを断定的に言える人は「私は神の気持ちがわかる」とか「私は死者からの要請が聞こえる」と言っているわけで、そういう人には儀礼に必要な敬意がいささか足りないような気がします。
老師がおっしゃっていることを少し敷衍すると、宗教儀礼というのは「神を前にしてどうしていいかよくわからないので、おどおどしているようす」そのものを記号化した身振りではないかと思います。
ですから、「正しい作法」とは「正しい作法って、何だろう?」という疑問をもつこと、つまり七星さんがいまされていることそれ自体であるというのがぼくの考えです。

About

2007年03月26日 08:53に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「質問・53 本心って何でしょう?」です。

次の投稿は「質問・55 男女の友情って、ありえないのでしょうか?」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35