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2007年07月 アーカイブ

2007年07月11日

質問58・プラスティネーション、ありですか?

Q:
職業も専門もありません、はじめまして。唐突に失礼します。「プラスティネーション」が一般化する見込みはあるのでしょうか?(たとえば、「プラスティネーションキット」という名の“商品”として東急ハンズなどに置かれる可能性)または、葬儀屋さんのように「プラスティネーション商会」、という風なものは実在しているのでしょうか?
家にいる猫。いまはぴょんぴょん生きていますが人と猫の寿命を思い浮かべると、共にいる方法を考えてしまいます。猫が天寿を全うしたらその生死とは関係なく一緒でありたい。(家にいる猫がのたれ死ににでかけたら…と思うと悲惨な気持ちになります。死ぬのには適さない都市なので。)そもそも世の中にあまり入れられていない猫とはいえ、遺体(?)を手許にあるようにするということは許されているのでしょうか。
(ペンネーム 七坂) 30歳 

A:
あっ、「プラスティネーション」って、あの「人体の不思議展」で公開してるやつでしょ。遺体や内臓の水分をプラスチックなどの合成樹脂に置き換えて標本を作るんですよね。すごくリアルだし、触れるんでしょ。
なぜ私たちはああいうのを見たくなるんでしょうか? このあたりの心理メカニズムは内田先生に分析していただきたいところです。
とりあえず、この手の「見世物」は、昔からあるんですよね、確か。明治・大正時代や戦前・戦後だって「衛生博覧会」などと称しグロテスクでエロティックな展示をしてたと聞きます。「秘宝館」とかも同じ類なんじゃないんですか。えっ、違うの?
とりあえず、こういうのは「すごく一般化はしないけど、なくならない」んじゃないでしょうか。また、「プラスティネーション商会」というのはあるのかどうか知らないのですが、ネットで調べたところによると「近年では同技術をプラストミックと呼称する別の団体も現れた」とか、「遺体の提供元である中国では、外貨獲得の一手段になっている」などと書いてありましたので、すっかり商品化しているかもしれません。

えーっと、それと猫の問題ですね。愛する対象の死を看取りたい、遺体を手元に置いておきたい、そのお気持ち、少しはわかります。なにしろペットという存在は自我の一部ですもんね。「ペット・ロス症候群」ってのがあるくらいです。私の知り合いの僧侶も、「ペット・ロス症候群」になったんですよ。
まあ、でも、たぶん、猫はそんなことに執着はないと思いますよ。「孤独で死にたくない」「のたれ死にしたくない」「適した場所で死にたい」というのは、あなた自身の投影です。
ですから、「なぜ私は猫の死のあり様が気になるのか」という自己分析から始めるのが仏教的手法ということになります。
ところで、「遺体を手元におく」というのは何のことを言われているのが、ちょっとよくわかりませんでした。火葬してお骨を置く以外に方法を考えているのでしょうか。「剥製」にするんですか? 「許されるのか」というのは、仏教的に許されるのか、ということでしょうか。とりあえず、仏教では遺体は火葬するのが正式の作法です。
また、もし猫の遺体を手元に置いておきたいという希望があるのであれば、最近は火葬したお骨を指輪やペンダントなど身につけるものに加工するサービスがあります。「手元供養」などと呼ばれているようです。ただ、私は、そのような形態は好みじゃありませんが…。火葬・埋葬して、自然へと還元する、そのほうが好きです。
ついでに言いますと、最近日本でも行われるようになった「エンバーミング」というのは、遺体をそのまま保存する方法ではありません。薬品等を使った(火葬のための)死に化粧です。

こんにちは。ウチダです。
「プラスティネーション」ですか。
私は「死体加工」って、それ自体がこわいので、この手の話はダメなんです。
「死体加工」というとどうしても原点はエド・ゲインにゆきつきます。
ゲインさんは女の人を殺したり、墓場をあばいたりして、大量の死体をストックして、それをいろいろ加工しました(切ったり刻んだり乾燥させたり皮を剥いでなめしたり骨を取って家具にしたり・・・)。
1957年に事件の全容がわかったときにアメリカ全国民は深いトラウマ的経験を刻まれました。
以後、エド・ゲインを原型とする無数の恐怖映画がつくられました(代表作はトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』とアルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』)。それ以後もたぶんエド・ゲインをモチーフにした映画は100本くらいは作られているはずです。
物語をかたるというのはある種の呪鎮の儀礼ですから、それだけ死体毀損のもたらす罪悪感がアメリカ人を苦しめたというふうに解釈してよいと思います。
「こわいもの」を鎮める方法には「『こわいもの』を遠ざける」と「自分自身が『こわいもの』になる」という相反する二つがあります。
死体損壊のタブーに触れたときにアメリカ人が選んだのはどうやら後の方のソリューションのようです。
死体なんてこわくないよ、というふうに「強がって」みせたのでしょう。オレだって、死体なんかいくらでもいじりまわせるぜ、って。
プラスティネーションやエンバーミングは伝統的なプロテスタンティズムの宗教性からは出て来にくいものだと思いますけれども、それは恐怖を抑え込もうとする努力のひとつの露出なんだろうと思います。

ペットのプラスティネーションの話からだいぶ離れちゃいましたけれど、「死体」をみたら、とりあえず呪鎮の儀礼をして、あとは一目散に遠くへ逃げる、というのが人間の古来の基本的な反応だろうと思います。
「死体はこわい」という恐怖のセンサーはとてもたいせつなものです。
「死体はこわくない」というのはこのセンサーをカットすることですが、それがどれほど多くの破壊をもたらすことになるのか、ぼくはあまり想像したくありません。

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