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2007年08月 アーカイブ

2007年08月24日

質問59・お墓はどうやって探したらよいのでしょう?

Q:
こんにちは。初めまして。
どこで聞けばいいのか分からなくてこちらにメールしてみました。
私の父方の祖父、というのが自分の家(?)というかルーツということになると思うのですが、ご先祖さまにあたるお墓がその祖父の母のものしか場所が分からないのです。
もともと九州の方に住んでいたという話は聞いているのですが、祖父は覚えていないようです。もしくはあまり話したくないようだと祖母が言っていました。
お墓参りでうちの名字の墓は(上に書いた)ひいおばあちゃんのものしかないというのは、どうなのかなと思うのですが、代々のお墓があるとすれば調べる方法はないのでしょうか。もしくは供養の仕方など、教えて頂ければ嬉しいです。
(匿名希望・女性)

A:
調べる方法ですか。
まずは、一度その”ひいおばあちゃんのお墓”があるお寺に尋ねてみてはいかがでしょうか。
お寺の住職は地域の人間関係に詳しいので、何らかの情報をもっている可能性があります。さらにお寺には「過去帳」と呼ばれる戸籍記録のようなものがあります。現在は差別問題や個人情報の問題等で簡単に見せてくれなくなりましたが、「自分の先祖をたどりたい」という理由であれば大丈夫でしょう。そこに何か手がかりがあるかもしれません(よく「過去帳」には、どこそこの出身とか、誰の子供とか、誰の奥さんとか、どんな仕事をしていたなどのちょっとした情報が書き込んであったりします。だから、興信所などが「見せてくれ」などと訪ねてきたりします。もちろん、そんな手合いには見せません)。
また、お寺とお寺にはずんぶん昔からのネットワークがありますので、「〇〇寺さんへ行ってみなされ」的なつながりへと展開することが期待できます。あるいは、お寺の人に土地の古老を紹介してもらい、話を聞きに行くことも意外と有効です。とりあえずそのあたりを手始めとしてはいかがでしょうか。
しかし、いろいろと調査してみてもわからなければ、それはそれでいいじゃないですか。ひいおじいちゃんにもいろいろと事情があったのかもしれませんからね。
ところで、「供養」ですが、「先祖教の供養」と「仏教の供養」を分けて考えねばなりません。
かの柳田國男は日本人の宗教を「先祖教である」と断じました。”先祖教”の特徴には、「死者が祖霊になるまでお祀りを怠らないこと」があります(亡くなった人の霊は、33年~50年くらい祀ると”祖霊”となって「個」が消滅する)。これは仏教ではありません。儒教とも道教とも違う。これを神道と呼ぶのにも問題があります。つまり”先祖教”です。そして、日本の宗教は、仏教であっても、キリスト教であっても、みんなこの”先祖教”になっちゃうって柳田は言うんですね。”先祖教”としての供養であれば、教義や行為様式はありませんので、その土地その地域の習俗で祀ります。自分なりに祖壇でも設けて、お祀りすればいいでしょう。
仏教の供養となると、先祖や身近な人を通して、生きとし生けるものすべての安寧と幸せを願って供養することへと展開することが肝要です。つまり、ご先祖を手がかりとして、すべての生命へとつながっていることを自覚しようというわけです。先祖を供養するだけでは、仏教と言えません。
そのため、仏教ではあまり「先祖」と言わずに、「先達(せんだつ)」と表現します。「先達」とは「先に道を歩んだ人」という意味ですので、血縁関係だけに限りません。
『慈経(メッタスッタ)』という短いお経があります。「テーラヴァーダ仏教の『般若心経』」と言われるくらい南アジアや東南アジアでは有名なお経です。『慈経』は「私が安寧でありますように。私の家族が安寧でありますように。私のまわりの人すべてが安寧でありますように」から始まり、最後には「すべてが安寧でありますように」と生命のつながりを実感するような内容になっています。慈しみの心を育むお経ですね。
というわけで、もしあなたが仏教徒であったり、仏教の考え方に共感されるのであれば、あまり無理してご先祖をたどる必要もなくなってしまいます。ひいおばあちゃんのお墓を窓口(!?)として、ひいおじいちゃんにもご先祖にもすべての生命にも、安寧を願って供養を実践すれば良いわけです。この精神に基づくのであれば、父方とか母方といった概念にこだわることは、(少なくとも仏教では)あまり意味がありません。
※かなり大雑把なお話をしましたので、もしあなたがきちんとした信仰や信心をおもちであれば、一度その宗教の手順を調べてみてくださいね。

2007年08月25日

質問60・死んだ子どもの魂の行く先は?

Q:
釈先生、内田先生はじめまして。お世話になります。
結婚して半年。初めての妊娠で喜んでいたのもつかの間、10週前に自然に完全流産してしまいました。 私のせいではないかと不安になり、申し訳なくなります。
流産してしまった魂はどうなるのですか? また、原因は何なのでしょうか。
お忙しいとは思いますが、御回答いただければ幸いです。
(ペンネーム うたこ・25歳・女性)

A:
妊娠の喜びから一転、流産の悲しみへと突き落とされたお気持ち、お察しします。本当に悲しいですよね、私も身近な方が数人同様の体験していますので、少しはわかります。初めての妊娠であれば、ショックも大きいでしょう。
現代人は自然流産しやすくなっているそうです。一昔前に比べて、アレルギー体質の人が増えていることと関係があるという説もあります。でも、そのかわり生殖技術が発達していますので、次回妊娠される機会があれば、よくお医者さんと相談してください。ほとんどの場合、流産を防ぐことができますから。
さて「流産した魂はどうなるのか」という質問に対して、すべての人が納得する答えはありません。宗教・文化・科学・コミュニティ、いろんなものがいろんな「生と死の意味」を提示してくれますが、それはその価値体系へコミットする人にのみ機能する「意味」なのです。当然、「ただひとつの正解」などありません。ある生命倫理の研究者に言わせれば「自己意識のないモノはパーソン(人格)ではない」といった理屈であっさり切り捨てるでしょうし、「水子の魂は、これこれこうなっていますよ~」と語る民間宗教者もいるでしょう。
さて、ここでは仏教の体系に沿ってお話します。仏教において、水子は特別な存在ではありません。すべての生命は網の目のようにつながり相互依存して成立していると考えるので、流産による胎児の死だって、成人の死だって、他のいかなる生命の死だって等価です。死によって、ひとつの生命体を構成していた要素(肉体や精神)は分離してしまい、また別の生命体を構成する、と仏教では考えます(ただ、「意識の連鎖」は止まらないとします。これを「相続」と言います。この説明はまた別に機会で)。
私たちは「生」も「死」も、思い通りコントロールできません(仏教ではこれを「苦」と呼びます)。そのことを自覚して、「私はどのように生きるべきか」という実践へと転換します。このあたり、仏教は少々プラグマティックです。ですから、もし面と向かって「 流産してしまった魂はどうなるのですか?」「また原因は何なんでしょうか?」と問われれば、私は「神でも仏でもない私にはわかりません。あなたがご自身で背負っていってください」とか「そんなの全部ひっくるめて仏様におまかせしてはどうでしょう」などと応答する可能性が高いです。
つまり、流産の痛みや苦悩をごまかすことなく、思い通りにならない人生と向き合い、この際じっくりと生命のつながりについて思考することが仏教的態度です。「私のせいではないかと不安になり、申し訳なくなります」というお気持ちに胸が痛くなりますが、「生命ある存在は必ず死に帰する」という事実を受けとめ、自らがいかに無力な存在であることを自覚し、他者の生命に繊細になる、このあたりがキモです。
でも、そうはいっても私たちはなかなかそんな風に転換することはできません。だからさまざまな人に助けを求めたり、宗教儀礼の力を借りたりします。人間って一筋縄ではいきません。人生って、しんどいですねぇ…。
とにかく、流産した生命は、間違いなくあなたの身心に連鎖反応を起こしています。それが生命のつながりです。そのつながりに思いを馳せつつ、あなた自身の人生を大切になさってください。

さて、ここでキリスト教の牧師さまにもご登場をお願いしましょう。当山「インターネット持仏堂」初登場!川上盾(かわかみ・じゅん)牧師です!
川上牧師は日本基督教教団・東神戸教会の牧師さんで、現在は内田樹先生の大学院ゼミにも参加されています。釈とは、内田樹先生宅における「麻雀を媒体とした宗教間の対話」を実践する間柄です。また、「歌う牧師」としても有名で、各地でライブ活動を行っておられます。http://higashikobech.org/bokushi.htm

【お知らせ】
12月8日に朝日カルチャーセンター大阪で、釈住職と川上牧師とのトークセッション『宗教の<救い>とは? ―なぜ真宗とプロテスタントは似ているのか―』が開催予定です。
ずいぶん以前から、浄土真宗とプロテスタントとの思想が似ていることは指摘されていましたが、「今回は、そのあたりの謎についても探ってみたい」と意欲的なお二人です。
僧侶と牧師による、宗教の<救い>についての語り合い。これは聞き逃せません!みなさまお誘いあわせのうえ、ぜひご来場を!!


A:
by川上盾牧師
釈先生の友人で、「歌う牧師」川上と申します。聖書のお話と共に、歌(賛美歌に限らず)を通してメッセージを届けることを「天命」と信じて活動しております。
さて、広大な果て知れぬ広がりを持つ宇宙の中で、生命(いのち)を抱いた星、それは私たちの知る限り、この地球だけです。大きな宇宙の中の塵のような星にこれだけのいのちが存在すること自体、ひとつの奇跡です。一方で、ひとつひとつのいのちは、大きな宇宙にとっては本当にちっぽけなものであり、その生涯はほんの一瞬の出来事です。僕は常々、「このいのちは決して偶然ではない。また当たり前のものとして存在しているのでもない。『大いなる存在』によって与えられた一瞬の奇跡なのだ」「ちっぽけだけど、かけがえのないいのち。それを感謝して、心豊かに生きよう」ということを語っています。
お子さんを流産された悲しみは、さぞ辛いものがあったことと思います。でも、私たちも自分で自分の寿命を決めることはできず、ただ運命(さだめ)にまかせるしかないことがあるように、流産した赤ちゃんにとっては、それが定められた「時」であったのかも知れません。でも、たとえ数週間でも、この星のかけらとして与えられたいのちには、祝福があり、意味があったのだと思うのです。
すべてのいのちは神のもとから来て、時が来れば神のもとに帰る。そう信じてます。

 「瞬きもせず」  中島みゆき
 瞬きひとつのあいだの一生 僕たちはみんな一瞬の星
 瞬きもせずに息をすることさえ 惜しむかのように求め合う
 ああ 人はけもの 牙も毒も、とげもなく
 ただ痛むだけの心だけを持って生まれた 裸すぎるけものたちだ
 君を映す鏡の中 君を誉める歌はなくても
 ぼくは誉める 君の知らぬ 君についていくつでも
 あのささやかな人生を 良くは言わぬ人もあるだろう
 あのささやかな人生を 無駄となじる人もあるだろう
 でも ぼくは誉める 君の知らぬ 君についていくつでも

質問61・水子の祟りってあるんでしょうか?

Q:
始めまして。お忙しいところ恐縮ですが質問です。
実の母親と全くそりが合わないことについて、フウチで占ってもらったところ「二人の性格上の相性もありますが、見えない世界の話で言うと、お母さんの水子たちがあなたたちの仲を悪くするようあおっているのです。この水子があなたの人生に大きな影響を与えています」と言われました。
母親から水子はいないと聞いていましたが、占い師によると、着床前流産という本人も無自覚の流産による水子が三人もいるとのことです。その水子たちの生まれ出なかった悲しみ、私に対する嫉妬が怒りに代わり、私の人生に悪い影響を与えているそうです。そして、今まで気がついてあげられなかったことに対する謝罪と、成仏して早く生まれ変わってくださいという祈りが供養となるようです。
この占いを真に受けるかどうかは別として、水子なんて寝耳に水の話だし、私の人生が今まで考えたこともないような存在に大きな影響を受けていた可能性があるなんて、にわかに受け入れ難いのです。仏教における水子とはどういう存在なのでしょうか?そして、水子供養の心のあり方について・・・この納得いかないもやもやした気持ちをどこに向けていいかわかりません。どうか良いお導きを下さいますようお願いいたします。
(37歳・シングル)

A:by釈
私はさまざまな宗教形態を観察して「ああ、人間って、本当におもしろいなぁ」と実感するのが好きなので、さまざまな宗教形態に対して一面的な批判はめったにしません…。でも、こういうことを言う占い師は嫌いです(なんと素朴な意見!)。「着床前流産」などと小賢しい理屈を持ち出すあたり(古典的な手法なんですけどね)、すごくイヤなので、できれば一生会いたくない人です(仏教では、そういう人には近づくなと説きます)。
ご質問の「仏教における水子とは」に対しては、前回お話しましたように、別に特別な存在ではありません。すべての生命はつながっているので序列はない、と仏教では考えます。ですから、仏教では水子のタタリや霊障といった概念ははっきりと否定します(ちなみに、現在流布している「水子の祟り」や「水子の霊障」などといったストーリーは1970年代あたりから超常現象ブームとともに創作されたもので、意外と最近の虚構です)。 
とはいえ、この手の話は反証も不能なので、一度でも耳にしてしまえば、どこか引っかかるんですよね(だから悪質なんですけど)。あなたも、占い師の言説の影響で心身のバランスを崩しかけているかもしれません。まずは、あなたとお母さんとの関係を分析するところから始めましょう。あなたが漠然ともっている「実の親子であれば、~だろう」という枠組みの点検をしなければなりません。
とにかく、ここは、(この占い師に腹が立ってしまっている)私よりもずっと人格者である川上牧師に再度ご登場願いましょう。

A:by川上盾牧師
「生まれかわり」という思想を持たないキリスト教では、いわゆる「水子供養」ということは基本的にはいたしません。神さまのもとに召された赤ちゃんに平安を祈り、見送った家族の悲しみに慰めを祈ることはありますが、それは一種の葬儀であり、「供養」とは異なるものです。神さまは、「呪ったり、祟ったり、そういうことをしない代わりに供物を要求する存在ではない」と信じてますので、「水子の祟り」といったことを語ることもありません。人が遭遇する悲しみや辛い出来事を、「誰かの祟りじゃ!」と不安を煽ることはせず、時間はかかってもその出来事を受けとめられるように、神の導きを祈ります。
自分ではどうにもできないような「いやな状態」を、誰か他の人のせいにして理由付けしたいと願う気持ちは、誰もが持っているものなのでしょう。だから「水子の祟り」的な言説が影響力を持つのだと思います。でも、そうやってすべてを「だれかのせい」にしてすますことができるんでしょうかねぇ…。
発端は、お母さんと「そりが合わない」ということですよね? そういうことって、世の中にたくさんありますよ。僕も実の父親(同じ仕事をしています)とそりが合ってるかというと、合わないと感じることの方が多いです。「互いに愛し合いましょう」なんて信者さんの前で語ってる牧師同士であっても、現実にはそりの合わない親子だったりします。すべての親子・家族が中睦まじく愛し合う…というのは確かに理想的ですが、現実にはそうはいかないのが私たちの世の中です。
これが他人であれば、関わりを切ったり無視したりすることも可能でしょうが、家族の場合はしがらみが断ち切れないので、余計そのことが重荷に感じてしまうのでしょう。家族だからこそ抱いてしまう憎しみや苛立ちといったものもあると思います。これは深層で抱いている愛情の裏返しなのかも知れません。「愛しているから腹が立つ、期待しているから非難する」ってことです。
いっそのこと、「そりが合わない」という事実を、「あってはならない状態」と考えるのではなくて、「そこから始めるしかない現実」とひとまず割り切って、受け入れてみてはいかがでしょう。「親子って、そういうもんだよ...」ということですね。そこを常態として受け入れてしまえば、案外お母さまのステキな面も見えてくるかも知れません。僕の父も「そりの合わないオヤジ」ですが、それなりに尊敬できる部分を感じることも今はできます。「親子」って、そういうもんじゃありません? 自分ではどうすることもできない苦境に立たされたとき、クリスチャンがしばしば口にする「おまじない」の言葉があります。
 “Let it be”。
「すべてはみこころのままに...」とも訳せる言葉ですが、「なるがままに」「なるようになれ」といった意味にも解せます。「この状態から何とか抜け出さねば...!」といった焦りにも似た気持ちから解放されたとき、きっと「水子の祟り」は気にならなくなるはず...!?

   “Let it be” P.マッカートニー
   私が苦しみに出会う時 聖母マリアが現れて
   知恵に満ちた言葉をかけてくれる
   “Let it be”
   暗闇の中に包まれてしまう時 彼女は私の前に立ち
   知恵に満ちた言葉をかけてくれる
   “Let it be”
   すべてはみこころのまま なるがままに 
   知恵ある言葉をつぶやいてごらん
   “Let it be”

2007年08月28日

質問62・節談説教を聞きました

Q:
こんにちは。
落語のルーツを訪ねるつもりで、7月の築地本願寺「節談説教」を聞きにいきました。
そのときは持仏堂ご住職さまと繋がっているとは存じませんでした。
(持仏堂じたい続いていたことに気づいてもいませんでした)
節談説教を聞き、その時代に布教するとはどのような事であったろうか?
浄土真宗はどのような受け止められ方をしていたのだろうか?
節談説教のエネルギーはどのように伝播していったのだろうか?
想像は広がります。
さて質問です。
今月末に京都へ行く計画がありまして、節談説教に縁のあるお寺を京都に尋ねるとしたら何処へ行けばいいのでしょうか?
(monstera)

A:
おお、7月の築地本願寺に来てくれたんですね。それはそれは、ありがとうございます。想像もしていなかったくらい多くの人が来てくださって、急遽第三会場まで準備するようなあり様でした。
それにしても「落語のルーツ」を訪ねるつもりで「節談」に行き着くとは、たいした嗅覚です。名人級です。
ご質問の「節談説教に縁のあるお寺を京都に尋ねるとしたら何処へ行けばいいのか?」ですが、残念ながら「行けば節談を聴聞できるお寺」というのはありません。西本願寺の聞法(もんぼう)会館内にある総会所では、365日、お説教を聴聞できますが(おそらく世界でも稀有な場でしょう)、そこで節談が語られることはありません。
お話すると長くなるのですが、いろんな理由があって「節談説教」は自粛や禁止の憂き目にあってきました。「このままでは節談を語れる人が絶滅する」という危惧から、今回「節談説教研究会」を立ち上げて「節談説教会」を開催したわけです。
というわけで、もし「節談」をお聞きになりたいのであれば、節談説教を語る説教者を追いかけるしかありません。例えば、築地の大会に登場していただいた藤野宗城師などは全国各地を回っておられますので、スケジュールを調べてお座に行けば藤野師の節談をお聴聞することができます。
ただ、今回の築地での大会は予想以上に反響があって、さまざまな方面からオファーが殺到しておりますので、いずれご縁があるかもしれません。また、築地の大会は第一会場・第二会場分がDVDで発売されています。方丈堂出版のほうにお問い合わせください。
http://www.hojodo.com/

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