その11

内田から釈先生へ(2003年12月19日)

 

釈先生の前回お書きになったことで、実はいちばん「どきっ」としたのは「タタリ」という言葉です。

宗教的な超越について考えるときに、ここまで「善性」というものを照準して書いてきたわけですけれども、その一方に「超越的な邪悪さ」という重要な宗教的概念も存在するわけです。

いささか脇道にそれるようですが(脇道にそれるのは、この往復書簡における私の役回りみたいなもんですから)まず「善」とは何かということについて、ついで、その対極にあるものとして「邪悪」について考えてみたいと思います。

私が「善」とうことばで漠然と概念化しているのは、前回にも引いた西行法師の和歌にこめられたような「被造物感覚」あるいは「絶対的な遅れの感覚」をもたらしきたすような「契機」のことです。

私が「遅れている」という実感を抱くとしたら、それは「何か」が先行しているからですよね。

その「何か」を私たちは直接は命名する言葉を持ちません。

例えば、「神」というふうに言ってもいいわけですが、私たちは「神」というのは人間が作り出した言葉にすぎず、そのような実詞をもって「人間を超えるもの」について語ることは原理的に不可能であるということを知っています。

そうですよね。神というのは人間の理解も共感も絶しており、そもそも私たちが「理解」とか「共感」とか呼んでいる人間の能力そのものを基礎づけた「契機」のことなんですから。

私たちは「神さまというのは、これこれこういうものさ」というふうに語ることができません。

しかし、「神」とか「超越」とかいう言葉を持っていなければ、私たちは「神について私たちはその超越性を毀損せずに語ることができない」という命題を語ることだってできないわけです。

「神について言語では語りきることができない」という命題を語るためにはどうしても「神」という名詞が必要です。

一度提出されて、それがただちに抹消記号を付されるような記号のあり方をレヴィナス老師は「前言撤回」と言いました。フッサールは「かっこに入れる」という言いました。ハイデガーもデリダもラカンもみんな「右手で差し出して、左手で消す」ような記号操作が記号化を絶するものについての唯一可能なふるまいであるというふうに書いています。

この私たちのあらゆる概念操作に先行し、私たちが概念を操作しうるというポテンシャルそのものを基礎づけているものをレヴィナスは「善性」(Bonte)と名付けています。

それはいわば「名付け得ぬもの」に、それが「名付け得ぬものである」ということを指示するためにとりあえず付けた「仮の名」だと思ってください。

 

レヴィナスの「善」概念について理解するためには、まずレヴィナスの「欲求」と「欲望」についての概念規定の違いを確認するところから始めるのがわかりやすいと思います。

「欲求」(besoin)と「欲望」(desir) 、言葉は似ていますが、レヴィナスはこれにまったく異なる定義を与えています。

「欲求」とは「本来あるはずのものが欠如した状態」です。「原状回復」を求めることです。

欲求は本質的に郷愁であり、ホームシックである」(『全体性と無限』)

言い換えれば、私たちが何かを「欲求する」というとき、私たちはすでに自分に「何が」欠如しているのかを知っている、ということです。

おなかが減ったとか、喉が渇いたとか、ベンツが欲しいとか、そういうのは「欠如」されている当のものがきっちりと輪郭をもって対象として見えているわけですから、これが「欲求」です。

その意味でいうと、「知識」とか「スキル」というものについて私たちが欠落感を感じるとしたら、それは「欲求」を感じている、ということになります。

もし大学に来る学生たちが、「これこれしかじかの知識が欲しい」とか「こういう技術を身につけて、こういう資格を取りたい」というふうに考えていたとしたら、その人は「何をもって欠落を埋めることができるか」をあらかじめ知っているわけですから、このような状態を「欲求を持つ」とレヴィナスは言います。

これに対して「欲望」とは、欠落があることは確かなのだが、何をもってその欠落を埋めることができるのか、自分が何を求めているのかを言うことができない、というようなあり方です。

このような名付け得ない欠落感というものこそ私たちをもっとも激しく「命名すること」へ駆り立てるものです。

レヴィナスはこう書いています。

形而上学的欲望は、まったく他なる何ものか、絶対的に他なるものを志向する。(・・・)形而上学的欲望は帰郷を求めない。なぜなら、それは一度も生まれたことのない土地に対する欲望だからだ。(・・・) 欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する。」(同書)

レヴィナス先生のフレーズはほんとにいつ読んでもかっこいいですね。

「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」なんていうフレーズを読むと、心拍数が上がって、ざわざわと鳥肌が立ってきますね。

そんなふうに身悶えするのは私だけかなあ。

ま、それはさておき。

「いまだ存在しないもの」の探求、それが欲望です。

愛する人を抱きしめているときに(えっと、釈先生の方に差し障りがあるようでしたら、「可愛い子どもを」にしておきましょうか?)もし愛撫が「欠如」であるなら、ぎうっと抱きしめたことによって欠如は満たされ、ガソリンを満タンにしたときのように「はい、どうもありがとうございました」と言って、ほいほいとどこかに出かけてしまう・・・ということが可能なはずですが、実際にはそんなことって起こりませんよね。

いくらぎうぎう抱いていても「満たされる」ということは起きません。

むしろ、自分がどれほどこの人を求めていて、その不在を耐え難く思ってるか、ということばかりが身を切り裂くように実感される、というものです(よね)。

というわけで、欠如が満たされ得るものを「欲求」、欠如が充足されるにつれてますます欠落感が昂進するようなものが「欲望」と呼ばれます。

ここまでの理路はそれほど複雑なものではありません。話がややこしくなるのはこれから。

レヴィナスによれば、「善」は「欲求」されるものではなく、「欲望」されるものです。

つまり、私たちが因習的に理解しているように、何を為したらよいのかがあらかじめ分かっていて、そのリストに指示されているとおりにふるまうこと(人に親切にする、とかものを盗まないとか)を「善」と言うのではありません。

善とは「自分は何をしたらよいのか分からない」が、「自分は何をしたらよいのか、わからない」という仕方で世界に投じられてあることを「絶対的な遅れ」として引き受け、おのれに「絶対的に先んじているもの」、言い換えれば「存在するとは別の仕方で」私たちにかかわってくるものを欲望するという事況そのものを指しているのです。

たしかに「殺してはいけない」とか「盗んではいけない」という戒律は存在しますが、問題はその戒律を「人間たちが集まって、合議の上で決定した」というふうにしないで、私たちの祖先が、「神という立法者から超越的な仕方で与えられた」という話形で受け容れたことです。

つまり「善悪」にかかわる戒律は、「絶対的に遅れているもの」に「絶対的に先んじているもの」が「贈与」したものを「遅れているもの」は拒否することができないという物語と込みで与えられているわけです。

むしろ、重要なのは、戒律の文言ではなく、神の与えた戒律を人間は拒否することができないという「無能の覚知」の方にあると思います。

つまり、「善」というのは、戒律の「コンテンツ」ではなく、戒律が与えられる「仕方」のことを指す、というのがレヴィナスの「善性」論なのです。

 

「善」とは、存在の彼方なるものが、それでもなお私たちの存在に直截にかかわってくるという事況そのものを指しています。

〈善〉はそれ自体として〈善〉であって、欠如しているものに対する欲求によって〈善〉であるのではない。〈善〉は欲求に対する過剰なのである。まさしくそれゆえにこそ、〈善〉は存在の彼方なのである。私たちは先に暴露と啓示の違いを論じた。啓示とは真理が私たちがそれを探求するより先に顕現し、私たちを照らし出している、そのような経験のことである。〈善〉の概念はこのときすでに示されていたのである。(・・・)欠如を埋めることで満足させられるような欲求とは別に、苦しみや欠落によって先立たれないような渇望もまた存在することにプラトンは気づいていた。私たちはそこに〈欲望〉の運命を認める。〈欲望〉とは欠如していないものに対する欲求、おのれ自身を完全に所有していながら、その充溢の彼方に向かうもの、〈無限〉の観念を抱く者が抱く渇望のことである。あらゆる『存在する』の彼方である〈善〉の位置は神学のではなく、哲学のもっとも深い教え、決定的な教えなのである。」(同書)

うう、すごいですね。

さすが老師。

これをすいすいと読んで「なるほどなるほど、そういうことって、あるよね」とうなずける読者はおそらく世界にそう多くはいないでしょう。

もちろん私だって、正直言って、よくわかんないのです。

よくわかんないけど「すごい」ということだけは分かります。

ざわざわと鳥肌が立つので、老師がものすごく深遠なことを述べているということだけは分かります。

やはりここでも「絶対的な遅れ」の観念が問題になっているのだと思います。

これは要するに「世界がすでに創造されたあとに、世界がすでに分節されたあとに、私たちは世界に到来した」という自己了解のことです。

それは卑近な例で言えば、「世界が日本語で分節されたあとに、日本語話者として生まれた」という被投性に少しだけ似ています。

日本語話者として生まれた子どもは、とりあえず日本語を習得する他に意味にアクセスする手段がありません。日本語の世界分節にしたがって世界を眺め、日本語で音素として認定された音韻を聞き分け、発音します。

どれほどがんばってみても、私たちは日本語の「立法者」にはなれません。

「本日より『私』の代わりに『へもらんちょ』という代名詞を使い、『決める』を『でてるみねる』と言うことにへもらんちょはでてるみねた」などという宣言をしてみても、その新しい品詞が公共的に信認されて、日本語の語彙に登録されない限り、彼のことばは意味不明のままです。

「遅れている」というのは例えて言えばそういうことです。

もちろん、すべての生物は世界の創造に遅れて到来したわけですが、同じ遅れて到来したものたちの中にあって、おそらく人間だけが、「自分たちは世界に遅れて到来した」ということを自覚しています。他のライオンとかシマウマとかには、自分たちに先んじて世界を創造したものに自分は「遅れている」という感覚はないのではないかと思います(ライオンになったことがないので確言はできませんが)。

この「遅れ」の感覚を基礎として、おそらく「人間的な時間意識」というものは発生してきたのでしょう。

というのは、「私たちの生に絶対的に先行しているもの」に対して私たちは焼け付くような欲望を抱きますが、そのような欲望は動物にはありえないからです。

私たちは、それが絶対に不可能であるということが分かっていながら、私たち自身を世界に誕生させたものが「何のために、私たちをこの世界に送り込んだのか」を知りたく願うのです。

「私がここに生きているのは、自明のことである」という無反省のうちにまどろんでいる人間はいってしまえば「動物」的な存在者です。

「私はいかなる意味があって、この世界に送り出されたのか」という(答えが得られるはずのない)問いから逃れられないという宿命が人間の人間性を、言い換えれば人間の「善性」を構成している。レヴィナスはそういうふうに考えているようです。

 

では、「邪悪さ」というのはいったい何なのでしょう。

「存在の彼方」が善であるとすれば、「超越的な悪」というものは論理矛盾だということになります。

そうですよね。超越ということそれ自体を人間は「善」と名づけたはずだからです。

しかし、間違いなく「邪悪なもの」は存在します。

それは私たちの理解も共感も絶しており、私たちを「遅れ」のうちに取り残しながら、決して「善」と呼ぶことのできないものです。

多くの文学者(ドストエフスキーから村上春樹まで)がこの「超越的な邪悪さ」とどう立ち向かうのかを論じてきてことは釈先生もご存じのとおりだと思います。

 

釈先生、仏教では「悪」の問題というのは、どういうふうに論理的に位置づけられるのでしょうか。

悪の問題がある程度解明されると、善の問題も、私たちの被投性の構造も、ずいぶんと見通しがよくなるように思います。

ぜひ、お教え下さい。

お正月を前にして、なんだかめんどくさいことをお願いして申し訳ありませんが、ひとつよろしくお願いします。

では、よいお年をお迎え下さい。

 

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