その8

2003年11月11日

 

内田 樹から平川克美くんへ

 

ぼくは平川くんと違って、毎晩しこたまお酒を飲んでから寝ちゃう人なので、「早起き」というのがなかなかできません。

昔は、相当飲んでも、朝の六時頃に目が覚めて、そのままコーヒー片手にばりばり仕事、というような芸当もできたんですけど、最近はさすがに肝臓がへたってきたらしくて、ちょっと量が過ぎると、日が中天に上るくらいまででれでれしていないと「人間」に戻りません。

そのせいもあって、睡眠時間がどんどん長くなってきているんですけど、(最近は9時間から10時間くらいなんですよ、よく寝るなー)そのわりには、アウトプットの量はなんだか前より増えたようです。

ということは「起きている時間」の密度を増加させることで帳尻を合わせているわけですね。

人間というのは、なかなかしぶとい生物です。

そういえば、「ピンチになると、ふだん使っていない身体機能が起動して、不調になった部位を代替する」ということが近年、脳や神経の研究で明らかになっているそうですが、人間というのは、とくにこの「バイパス形成能力」が高いんじゃないかな。

前に話したことありますよね「中学三年のときに、半年だけテキストを図像で記憶できる『カメラ目小僧』になった話」。

あれこそ、「バイパス形成」の典型例だと思うんですけど・・・あ、その話をするとすごく長くなるから、また次の機会にしておきますね。

 

■幻想的身体としての消費主体

さて、人間の消費行動についての「原理論」みたいなものを基盤として共有しようとしてこの論件はぐいぐい深化しているようですね。

前段を承けて、もう少し消費について、「欲望に点火する」というのがどういうことなのかを原理的に考えてみたいと思います。

平川くんがグローバルレベルの話をしてくれたので、ぼくは少し日本の戦後の消費行動の流れについてまとめてみたいと思います。

 

戦後日本社会を「消費行動のパターン」という観点からだけ見ると、次のようなことが言えると思います。

まず、日本における近代化プロセスの中で、消費単位が「地縁・血縁共同体」から「家族共同体」へ、さらに「個人」へとシフトしていったという大きな流れがある、ということ。

このプロセスは消費主体の「数的拡大」による総需要の拡大という資本主義のロジックと平仄するものだった、ということ。

これは言葉を換えて言えば消費の基体となる「身体」が縮小するプロセスであったとも言えると思うのです。

 

前近代の地縁・血縁共同体は幻想的な水準では、ひとつの「擬似的身体」として観念されていたこと、これはまず間違いないと思います。

社会有機体説の説明がここではうまく妥当すると思うのですが、前近代の組織というのは、「お上」や「お頭」というものがシステムのトップにあり、それをアシストする「片腕」や「懐刀」や「腹心」というスタッフたちがおり、実働部隊としての「股肱の臣」があり、「手下」たちがいる。

これは完全に人体のメタファーですよね。

組織の指導者を上下の比喩を使って top と呼んだり、人体の比喩を使って、headや chef (いずれも「頭部」の意ですね)と呼ぶのはおそらく万国共通でしょう。

とりあえず、この時代においては生産と消費の基本単位は「幻想的身体」としての共同体であったと思います。

ですから、「頭が望むもの」と「手が望むもの」は欲望の対象としては合致しません。

「頭」が「本」や「食物」を望むときに、「手」は「手袋」や「杖」を望む。身体部位ごとに求めるものが違うように、幻想的身体として消費単位が構成されているとき、構成員個々の欲望というものは、その「巨大な身体」を一人の人間として観念したときの、自分の担当部位の「欲望」に限定されていたのではないかと思います。

近代化の過程で、この幻想的身体は切り縮められ、「家父長制的家族」にまでダウンサイズしました。

それが戦後になってさらに細分化して、「核家族」というぼくたちにとっての原風景が出現するわけです。

この核家族は「お父さん、お母さん、子どもたち、犬(またはネコ)」という構成がわりと一般的でしたが、もう父親を「頭部」とみなし、子どもたちを「手足」とみなすような位階制的な共同体としては機能しなくなっていました。

核家族というのは、それよりもっとアモルファスな「ぐちゃぐちゃした」共同体でした。

しかし、この核家族もまた、欲望の「分有」のシステムであったことに変わりはないように思います。

 

■核家族が消費的身体であった時代

 

消費単位が核家族であった時代というのは、欲望がわりと無秩序に家庭内に蔓延していった時代だと思うのです。

つまり、こうです。

家族のメンバーの誰かの欲望(犬が欲しい、洗濯機が欲しい、野球盤が欲しい・・・)に他のメンバーが「感染」し、いつのまにか家族みんなが「それ」を欲しがるようになる。

そして、その欲望が充足されると、その欲望の当の主体以外の家族メンバーも、それに準じた「充足感」を得る、というものです。

核家族の成員たちは、いわば一種の「共−身体」に帰属しており、その「共ー身体」という場にわだかまった「共−欲望」にドライブされて、家族単位での消費行動が行われた、というのが高度成長期の家族と消費の幻想的関係ではないでしょうか

 

この古典的な「欲望の感染」の残滓は、アイフルのTVCMで見ることができます。

「お父さん、あたしの結婚式のときに、あれ着てよ」と娘にショーウィンドウの燕尾服を指さされたお父さんが・・・というあれです。

あのシリーズのちょっと前の、「お父さん、犬買って」とねだる娘に「まだまだ、ボーナスが出てから・・・」と渋っていたお父さんが「犬と目があった瞬間に、海岸で犬を戯れる自分の姿を想像して・・・」というのがあったでしょ。

もちろん「犬と目があった」というのはお父さんの幻想であって、実際には「犬を欲望する娘の欲望」がお父さんに感染してしまったのです。

ぼくたちの子ども時代から青年期においての、家族単位の消費行動というのは、基本的にそんなふうに「自動車を欲しがるお父さんの欲望」や「冷蔵庫を欲しがるお母さんの欲望」や「自転車を欲しがる子どもの欲望」が、家族の内部で繰り返し吐露され、確認され、輪郭をくっきりさせ、やがて全員に感染し、幻想的に「共有」されるという手順を踏んでなされてきたように思います。

消費の実践が、そのまま家族の親密性を担保し、資本主義の繁栄を駆動する。たぶんそんなふうにして1960年代までは、「核家族体制」と「高度成長」は手を携えて進行してきたのです。

 

■家族解体

しかし、やがて家族単位の消費行動では、供給に追いつかない時代がやってきます。

どの家にも、家電製品は一通り揃い、やがて、1950年代にはアメリカのホームドラマの中の夢でしかなかった3Cも手に入ります。(3Cというのは、カー、クーラー、カラーテレビのことです。最近の若い方学は知らないでしょうけど。1960年代の「三種の神器」です。初代の「三種の神器」はテレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機。第一期「神器」期の主婦たちの圧倒的な欲望は小津安二郎の『お早よう』に活写されています)。

閑話休題。

そこで資本主義はさらに総需要を喚起すべく、打ってはならない「禁じ手」を打つことになりました。

家族を解体したのです。

家族が仲良く暮らしていれば、テレビはお茶の間に一台で用が足ります。

しかし、家族の仲が悪くなり、それぞれいっしょにいたくない、ということになると、テレビは人数分必要となるのはことの道理です。

「あんな小うるさい姑とは暮らしたくない」ということになると、新たに家を一軒手に入れないといけない。

資本主義の企業と広告代理店とメディアはこのとき、資本の要請の前に、「家族は解体した方が総需要は増える」という「悪魔の囁き」に屈したのです。

この「家族解体による新たな消費主体の形成」という戦略は、折しも興隆期を迎えたニューファミリーイデオロギーとフェミニズムに支援されて、爆発的な成功を収めることになりました。

思えば、前バブル期の消費イデオロギーの旗手であった糸井重里の発表した小説のタイトルが『家族解散』であったというのもまことに象徴的な出来事ではありました。

セゾン・グループ的には、「家族解体」は「市場のビッグバン」を暗示していたのです。

 

■消費の嗜癖化

それが1970年代からバブル崩壊までの、日本が世界最大の経済大国であった時代の消費と家族の基本的関係だとぼくは思います。

しかし、これが「禁じ手」である理由は誰にでも分かりますよね。

たしかにいっとき消費主体は家庭の数から個人の数にシフトしたわけですから、需要は爆発的に増えます。

でも、ここには致命的なアポリアがあります。

それは、個人は「再生産しない」ということです。

家族を解体したら、次世代を再生産する拠点がなくなります。

そのようにして、消費主体が個体数としては激増するのと歩調を合わせるように、子どもの数は激減してゆきました。

今年、国立社会保障・人口問題研究所が公開した「日本の将来推計人口」によると、日本の人口は2006年にピークを打って、以後減少に転じ、2050年には9200万人にまで減少すると予測されています。

2002年の12700万人から3500万人減るわけです。

総需要の27.6%分が日本から生物的に消失するのです。

もちろん原因は他にもたくさんありますけれど、政府や政党が決して口にしないのは、その最大の原因が「短期的な需要増大の代償に、次世代の再生産の問題を先送りした」ことにある、という事実です。

 

フェミニズムは「女性の経済的自立」をずいぶんと一生懸命に支援しました。

でも、「経済的自立」が可能になるのは、資本主義が繁昌している間だけのことです。供給と需要が均衡している間だけのことです。

当たり前ですよね。

若い女性がうちそろって「キャリア」を志向すれば、子どもは生まれなくなり、いずれ「キャリア」に商品価値を与えてきた当の「市場そのもの」が消失するという単純な計算をフェミニストが誰もしなかった、ということがぼくには驚きです(もちろん、それはわが国のフェミニストの基幹的主張のほとんどがアメリカ発のものであり、彼女たちがそのアメリカは先進国で例外的な「人口増加国」だということを勘定に入れ忘れていたから起きたことです。こういう重要なファクターをまるごと見落とすという点で、ぼくは日本のフェミニストをなかなか信頼できないのです)。

 

ともあれ、子どもの数は減り始め、新たに消費単位として独立した若い消費者世代は、なんといってもまだ購買力がない。

それまで、「犬買って」とか「自転車買って」とかわいわい騒いで、年長者の消費欲望を喚起していた家族メンバーを失ったじいさんばあさんたちは、もうすることがないので、お金を退蔵するだけとなります(それが1500兆円という膨大な預貯金になっているわけですね)。

このどん詰まりで、資本主義は再び「禁じ手」のカードを切ります。

それが「消費の嗜癖化」です。

もうモノは生活財としては要らない。それにお金だってそんなに自由に使えないという非活性的な消費者を刺激するには、もう「病気」になってもらうしかありません。

消費する「瞬間」だけエンドルフィンが分泌され、商品を獲得しても充足感がなく、ただ「それとほとんど同じ、別の商品」に対する欲望が湧出するだけ。その新たな商品を「ゲット」した瞬間だけ短い快楽が訪れ、手に入れると醒めてしまう・・・という「消費嗜癖」あるいは「買い物依存症」の悪循環にいま日本の総需要のかなりの部分は「依存」しているようにぼくには見えます。

「依存症」の病人に依存していったいどうすんだよ、と思いますけど、とりあえずぼくたちの資本主義社会はどうやらそんなふうにして「いきつくところまで来た」ような感じがします。

 

■新たな消費圏の創出

いまのような奇形的な消費行動は、「国内市場の絶対的シュリンク」という致命的趨勢を糊塗する弥縫策にすぎません。

しかし、国内市場の健全な育成のためには、次世代の再生産が必須であるにもかかわらず、それを励起し支援する社会的あるいは思想的な基盤は、いまの日本にはありません。

この否定的な状況のもとで何ができるのでしょうか?

いちばん簡単なのは、「移民の大量受け入れ」による人口確保ですね。

しかし、これは簡単にはゆかない大きな問題を含んでいます。これについては、いずれまたこのどこかでアメリカにおける移民のあり方について論究する機会に再論したいと思います。

とりあえずぼくは、3500万人の人口減をトレードオフできるほどの大量移民を受け入れる社会的インフラは日本にはないと思っています。

その上で、ぼくは日本が健全なかたちで「衰微してゆく」ためには、「新たな消費圏の創出」がどうあっても必要だろうと考えています。

 

今ぼく自身が試みているのは、複数の水準で展開している、比較的ゆるやかなネットワークのあちこちに「共−欲望」を共有する、ささやかなサイズの「共−身体」的な「親密圏」を作り出すことです。

他者の欲望に感応し、それをわが欲望とし、他者における欲望の充足をわが欲望の充足と「勘違いする」という「共-欲望」のシステムは、安定的に機能しさえすれば、個人にとってかなり快適なものとなりうることは、ぼくたちは1950年代に生活実感として経験済みです。

それがかつてのように核家族である必要はないけれど、ある種の「消費圏」が「親密圏」とシンクロすることは、資本主義をこれ以上暴走させないためにも、必要な戦略ではないか、とぼくは考えているのであります。

 

 

昨日、大学院のゼミで「消費と家族」というテーマで『ミーツ』の江編集長が刺激的なプレゼンテーションをしてくれたので、それにインスパイアされて、つい長々と書いてしまいました。

平川くんが前便で提起してくれた論件にはまるで触れる暇がありませんでしたけれど、それはまた次に。

ではまた

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