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2006年02月 アーカイブ

2006年02月07日

質問33・汝の敵を愛せよって・・・いわれても

Q:
聖書の「汝の敵を愛せよ」は、仏教的にはどう考えればいいのでしょうか?
聖書的にもよくわかってないのですが。
(Y原)

A:
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書)

キリスト教では「汝の敵を愛せよ」を軸とした隣人愛は、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれています。まさにこれに勝る愛の概念はないであろうと思われる「究極の愛」です。今後、どれほど人類の歴史が続こうとも、これ以上の愛はないでしょう。この一点だけでも、キリスト教が人類にもたらしたものははかりしれません。
さて、ここで語られている「愛」はアガペーの邦訳なのですが、よい訳とは思えません。「愛」はもともとあまりいい意味の用語ではなく、執着心を表します。もしアガペーに適合する日本語を探すなら、それは「慈悲」です。
そして「慈悲」はもちろん仏教の中心概念です。「慈悲」は「慈」と「悲」、二つの意味が合わさってできた理念です。「慈」はサンスクリット語のマイトリーを訳したもので、真の友と接するようにすべての生きとし生けるものを慈しむこと。「悲」はカルナーで、悲しみ苦しみうめく様です。ともに泣き、ともに苦しむ心を表しています。
また、仏教には「一子地(いっしじ)」という言葉があります。

「あたかも母が、おのれが独り子を、命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものたちに対して、限りなき慈しみのこころを起すべし」(『スッタニパータ』)
「平等心をうるときを一子地となづけたり
一子地は仏性なり安養にいたりてさとるべし 」(親鸞)
 
唯一のわが子に対するがごとく、慈悲の心を起こすということです。
こうして考えてみますと、キリスト教の隣人愛にしても、仏教の慈悲にしても、ほとんど実践不可能なものすごい覚悟が必要なことがおわかりでしょう。「そんなもん、実際にはできまっかいな」という気になりませんか? 確かに実行は困難ではあります。が、少なくともそちらへ向かって歩もう、という方向性をもつことは可能です。まるで水平線に向かって石を投げるがごとく、むなしく力及ばない行為ではあっても、その方向を向く。とにかく、まずは、身近な人に対して慈悲の心で接しよう。それが仏教の説くところです。

内田からもひとこと。
「汝の敵を愛せよ」の「愛」の意味について釈先生はお書きになっていましたので、私は「敵」の意味について書いてみたいと思います。
「敵」って何のことだと思います?
戦争とかサッカーの試合とか派閥抗争とかだと「敵味方」ははっきりしてますから、そういうものをベースにして敵という概念を考えがちですけれど、「敵」ってそういうものには限られないんじゃないですか?
例えば、一流のアスリートは専属のトレーナーとか栄養士とか通訳とか弁護士とかPRマンとかしたがえた「チーム」で行動しますね。
これは筋肉痛がしたり、栄養が偏っていたり、ことばが通じなかったり、契約関係でもめたり、メディアでスキャンダルが暴露されたりした場合に、実際にアリーナで「敵」とまみえるより前に、発揮できるパフォーマンスがあらかじめいちじるしく損なわれるということを意味しています。
ですから、こういう「チーム」を引き連れて、パフォーマンス発揮を阻害する要因をあらかじめ排除してアリーナに臨むアスリートと比べた場合、誰のサポートもなく、自分ひとりで全部処理しなければならないアスリートは、競技が始まるより前にすでに大きなディスアドバンテージを負っていることになります。
もし、「敵」というのを「パフォーマンスの最大化を阻止するファクター」というふうに機能主義的に定義すると、「敵」というカテゴリーには、「加齢」とか「ウイルス」とか「契約のもつれ」とか「家庭不和」とか「スキャンダル」とかいろいろなものがカウントされることがわかるはずです。
つまり、私たちが「敵味方」スキームでとらえて「敵」だと思っているものは、私たちのパフォーマンスの最大化を阻止する無数の要因のうちで、「私たちにいちばん近しい存在」のことなのです。
だって、そうでしょ?
同じルールに従って行動する、同じタイプの、同じ価値観の人間じゃないと、同じアリーナには立てませんからね。
私たちが因習的に「敵」と呼んでいるのは、私たちの行動と可能性を制約するもろもろのファクターのうちで、いちばん「与しやすい」ものなのです。
なにしろ言葉が通じるんですから。
あなたが敵だと思っているもの、それはあなたを不幸にしかねないさまざまな素因のうちで、おそらくもっとも無害なものである。
私は「汝の敵を愛せよ」ということばをそんなふうに解釈することもできるのではないかと思っています。
武道では「天下無敵」といいますが、これは「天下のすべての敵を殲滅したので、敵がいない」という意味ではありません。
「敵を作らない」ということです。
それはべつに「敵」にへいこらするとか、そういう意味ではありません。
「目の前にこういう阻害要因が出てきた」という事実を含めて「私」のアイデンティティを引き受けると、それはもう「敵」ではなくて、「私の一部」であるという自我イメージの切り替えのことを言います。
「私の一部」というか「私の欠点」というようなものですね。
そして、人間は「自分の欠点を愛する」ということについてはたいへん勤勉なものなのです。

質問34・フタマタはなぜ悪いの?

Q:
釈先生
はじめまして、インターネット持仏堂たいへん面白く読ませていただいております
ひとつどうしても知りたいことがありましてメールしました。
質問は「どうしてフタマタはいけないか」ということです。
なぜこんな質問をするのか、理由を話すととても長くなってしまいます、でもできるかぎり簡潔に、過不足に私の思っていることを書ければよいと思います。本当に長いです、どうかお許しください。
第1の理由として、私自身の現状についてお話をします。私の交際している男性には、もうひとり恋人がいまして、現在膠着状態です。幻想かもしれませんが、しかし私はとても幸せです。
それは私の方が本命ではないとなんとなく分かっているからです、もし本命で「他に女」がいたら私は許さないかもしれません。
しかし逆を言えば、もうひとりの恋人には「あなた本命なんだから十分でしょう、たまには私に週末を譲ってくれたっていいじゃない」とも思います、ですが、彼女のことは顔も名前も知らない方です、知りたいのですがなんとなく聞けません。
そうなってくると、もし私が本命だったら「許さない」かもしれないけれど「あなたが私の本命の座を脅かさない限りは許すわよ」と条件付きで許す可能性は出て来ます。もし「本命」という座を射止めることができるならそれくらいの負なんて平気だとも思えます。
それくらい、私にとっては「本命彼女」の座が羨ましく、そして敷居が高く、まるで理想的な別世界のことで、だからこそ、今の位に安住もして、「とても幸せ」と言うことも可能になります。
「こういう幸せもあり」かとも思います、でも心の底では、彼と彼女を妬んでいるかもしれません、無理に幸せと言い聞かせているだけかもしれません、そして彼と連絡が途絶える週末には何か用事を作り「考えない」ようにはしていますが、うっかり考えだすと、とても寂しくなります。
しかし、わざわざ用事を作らずとも、気分のよい休日には、まあ、へっちゃらです。こういったことは、普通の関係であっても同じかもしれません。相手の仕事が忙しいのに私はヒマ、私の仕事が忙しいのに彼がヒマ、そんなすれ違いで寂しい思いをしなかかったりしたりするのは普通です、
だからとりわけ「フタマタだから寂しい」というよりまず彼が傍にいなことが寂しい、その原因がもうひとりの恋人であるか、あるいは彼の仕事か、どちらにしても「彼自身の都合」に変わりはしません、と言い切ってもいいのでしょうか。
第2の理由として私の考え方についてお話します。
私は悪いことをしているかもしれません、それならば自分に鞭を打ってでも彼との関係を断つ必要があります。でも、どうしても「それほどまでに悪いこと」とはどうしても思えないのです。
彼は少なからず罪悪感を抱いていると思います、でも私の手前、私を立ててか、私といる間は私に集中してくれているためか、私以外との世界のことを捨象している様子で、そういった罪悪感を表すことをも極力避けている様です、でも実は私はもうひとりの恋人のことをとても知りたいと思っています、客観的なデータから、彼の彼女に対する思いや出来事まで含め、彼がもっとフランクに話してくれたらとても嬉しいです、ただ先述のような彼の配慮を有難く思えばこそ、余計な詮索はしません
私は彼のことをとても好きです、だから彼のことを総て知りたいと思ってしまうのです。友人としても好きですし、恋人としても好きですし、人としても尊敬しています(3つ年下ですけどね)、彼の大事な人であるならば、彼女のことも好きになりたいし、もし彼女と彼の関係について納得できるならば、彼と私の関係を考え直す可能性も出てくるかもしれません。
いや、できれば、私は3人で理解し合い、合意を得た上で、恋人としても仲良くできればそれがお互いにクリアーだし一番だと思っています、私はそうしたいと思っていますが、あまりそういったことを聞かないので、自分の考えに自信がなく、提案することができません、また実際にそれがうまくいくかどうかは、まあ分かりません、或いはそういったことを提案したら異常な人だと思われ、逆に嫌われてしまうかもしれません、彼は「原則としてはフタマタは悪い」だけど「現実的にそうなってしまったから甘受している」のだと思います。ましてや彼女にいたってはきっと「原則としてフタマタが悪いのは当然現実的にもあり得ない」という方針なのでしょう。この原則さえ揺るがすことができれば、あるいは原則がもう一歩身分を低くして(というか現状をちょっと優先させて)、円満とはいかないまでも、黙認して、たまに週末を譲ってくれたり、あるいはたまには3人で会ってくれても、いいんじゃないかなあ、なんて思ったりもします、そういったコンセンサスを得られたらいいなあと思います
「友人」と「恋人」の差ってなんでしょう、なんて今更高校生のようなことをお尋ねするつもりはありません、そういうのには個人差があるように、各々の関係において千差万別のグラデーションや温度差があってこそだと思うからです、個人が十人十色であるように、家族や夫婦や恋人の関係にも模範はないと思います、ただなんとなくもう少し大きな視野から見るとだいたいの傾向性が似通っているということで、それが模範になるとも思います。
そのひとつひとつの粒は微細に違っていて、その粒にいる私は「客観的な視野」を得るには「周囲や他人や世間からの習性」からなんとなく察知するより他はなく、そうなっくると、フタマタはやっぱりダメなのかと、気落ちします、私を気落ちさせるのは、彼ではなく、「なんとなくフタマタはダメ」みたいなそういう風潮です、彼は悪くない、と思いたいでも実際のところフタマタは本当に悪いのでしょうか、私は「フタマタは悪い」となんとなく流布している常識が、フタマタになってしまった人を苦しめているようにしか思えません、フタマタに市民権はないのでしょうか、
すみません、ちょっと熱くなってしまいました。これはもしかすると、彼を責めたくない、自分も責めたくない、から世間が悪いという責任転嫁かもしれませんね、ああそう考えるととても情けないことです。
情けないけれど心理学的考えれば私はそういった考え方のソリューションを採用し、自分を追い詰める精神的危機を避けて、平常心を保っているのかもしれません。
さて、もう一つ、なんでフタマタに関してコンセンサスを得たいのか、彼女のことを知りたいのか、もう一つの理由は、見えない相手と張り合うことが疲れるからです、そして見えない敵にいつも脅かされているという意識が苦しいからです、これは彼女自身の為でもあります、でも自分を磨くことにも繋がっています、こういった緊張感が惰性に鞭を打つためかまだ倦怠感を感じたことはありません、これも疾病利得でしょうか、フタマタ特有のメリットについては負債分のご褒美として苦く甘受しますが、悪と分かっているからこそ蜜の味であるからわざわざ悪を行うというのは好きではありません、それこそ悪趣味というものです。フタマタのスリルと緊張を味わいたくてフタマタに甘んじているわけではありません、だから世に言われる浮気や不倫といったことが「スリル」のために行われているならば、私はそういったことには「否」と申し上げたいです、そのことで傷つく人がいたら私もイヤです、
だから私も結局はその一味であるに過ぎないのならば、やはり自分に鞭を打って、自分の幸せをちいと我慢し、愛する彼の幸せをただただ祈って身を退くのが正しい道なのでしょうか、なんだかそれもちょっと偽善的なふるまいな気がして歯痒いですが、偽善でも悪よりはましですか
第3の理由として結婚の問題です。
さて、第1の理由も、第2の理由も、結婚を抜きにして考えれば、戯れ言にすぎないかもしれません。私は彼と結婚したいのですが、こういった状況で結婚を望むなんて、まったく非常識かもしれませんね、まず彼が結婚をするのは彼女でしょうかね、普通に考えれば。私は別に妾でも第二婦人でもかまいません、せめて子供だけでも作らせていただければと思います。それを認めてくれさえすれば、本妻の地位を脅かしたりもしません、私への経済的援助が不可能であっても、自分と子供のために頑張って生計を立てます。
それすらも認めてくれないのでしょうか、認めさせる手立てはありますか、しかし、彼にそういった覚悟を表明するのはなんとなくためらわれます。私みたいな考えは非常識でしょうか、私を苦しめるのは、私は非常識かもしれないといった自意識です、フタマタでもなんでもいいんです、天真爛漫に生きられさえすれば、私自身は、フタマタでもなんでも、そういうこともあるよね、って笑って甘受できるほど天真爛漫なんですね、でもそれができない人たちに配慮して明るくなれません、「できない人」と言っても悪く思ってはいません、できなくて当然です、普通に考えれば
私は許容範囲が広すぎるのか、それともたんにタガが外れているだけか、寛容精神の強い仏教にはこういう考えってどういうふうに解釈されますか(あ、私は仏教に全然明るくないので漠然としたイメージです、)
こういう自分の太っ腹なところ自分でもとても好きなんですけど、太っ腹で変なんじゃないかって気にしてしまうところが嫌いです、太っ腹一本で生きたい!でもそれで人を傷つけるくらいなら小さくなっていたいところです
以上です。
先生、とてもとても長くなってしまいました。でも書いたことで気持がちょっとスーっとしました。大家の内田先生がお話していた、デカルトの話しみたいに、悩み悩んだ末、さあ、「ラーメンでも食べようか」といった気持にもなりました、私の場合これから洗濯しに行きます。お酒のCMのように本当に悩みなんて話すことができれば、半分解決したようなものなのかもしれません、半分は解決していませんけど、気持の整理になっただけでもだいぶ落ち着きました。
こういったメールを長々書かせていただいたことに大変感謝しております。もし何か指南いただけることがありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

(ヤスエ、30才、女)

A:
釈先生のお答え
なぜ人間は「フタマタはいけない」っていう共有事項を作り上げたのでしょうか。
人間って、他の生物と比べるとかなり不自然ですよね。考えてみれば、12~3歳くらいで生殖可能な身体状態になるのに、ほとんどの社会では、その後何年間も生殖行為を禁止します。人間以外の生物では考えられない「縛り」じゃないでしょうか。そして、生殖可能期間が不必要なくらい異様に長いんですよねぇ。
キリスト教文化には、「結婚は大切な宗教行為」という基盤があります。キリスト教の結婚式では、「二人は神によって結ばれた。ゆえに人為で切り離してはならない」といった内容の言葉が語られます。男女とも性行為未経験で結婚し、一生添い遂げる。もちろん不倫は禁止の純粋一夫一妻制です。よく考えたら、かなり無理のある話でして、これは宗教の縛りなしで成し遂げられるとは思えません。なんでこんなことになったのか、諸説ありますが、ひとつは「男性性の生殖戦略」が考えられます。人間にたったひとつ残された本能、といってもよい「自分の遺伝子を残す」という走性。もし男性性が自分の遺伝子を高確率で残すためには? そう、パートナーが他の男性と性行為をしないこと。それで飛躍的に自分の遺伝子を残す確率が高まります。つまり、男性原理が強い文化では処女性が重視されたり、女性の不倫が厳しく断罪されることとなる、というわけです。イスラムにもその傾向はありますよね。
話が横に逸れましたが、人間は共同体や社会をうまく運営するために、本来の生理的メカニズムから考えてかなり無理のある制度や縛りを作り上げてきました。おそらく「フタマタ」も同様だと思います。

「フタマタが悪い」という概念がフタマタの市民権を奪っている、そうお書きです。その通りですね。自由主義の原則にあてまめれば、他者に危害を加えない限り、当事者同士が合意していれば、どのような関係を構築しようと干渉することはできません。それはおそらく(現代の教育をうけてきた)ヤスエさんもわかっているはずです。つまり、ヤスエさんが本当に「フタマタが悪いというのは幻想だ」ということを確信しているのであれば、おそらくこのように悩まれることはないはずです。 
実は自分では気づいていないけど、ヤスエさんは彼に「フタマタは悪いことじゃない。罪悪感なんていらない。だから私といつか別れなければならないなんて考えなくていいの」というメッセージを発したいのかもしれませんよ。

「なぜフタマタが悪いのか」、単に社会的な共有事項です(それが結構大切なのですが)。でも「フタマタがもたらすもの」とはなんでしょうか。それはヤスエさん自身が現在、痛切に感じておられることと思います。「とても幸せ」と書いておられますが、「もし自分が本命であるならフタマタは許さない」とも告白されています。おそらく、両方ともヤスエさんの実感なのでしょう。身も心もじりじりと焼かれるような二律背反ですよね。どう読ませていただいても、望んで今の状況におられるとは思えません。つまり、「すべてのフタマタは悪い」という命題は成立しないと思いますが、「関係者の大部分に苦を生じさせるフタマタは良くない」ということは言えるんじゃないでしょうか。
もちろんおっしゃるように「こういう幸せもあり」でしょう。ヤスエさんは、「フタマタが悪」という概念と「彼との関係」を天秤にかけて、後者のほうが重い、という話を展開されています。でも、本当に天秤にかけているのは、「フタマタが悪い」という概念ではなく、「彼との関係を断つべきか」と「今おかれている現状を満足すべきか」なのでは。
私、意地悪でこんなことを言っているのではなくて、仏教では自分を深く分析することによって苦を解体するという手法を取るからなんです。誤解しないでね。

さて、結婚についても言及されていますが、仏教の文脈に沿って考えるなら、不倫はやめておこう、です。一般のブッディストの生活習慣目標である「五戒」には「不邪淫戒」というのがあって、パートナー以外との性交渉はやめておこう、ということになっています※。それは、なぜか。自分自身に「苦」を生み出すからです。そう、ヤスエさんが自らおっしゃっている通り、「見えない相手と張り合うことが疲れるからです。そして見えない敵にいつも脅かされているという意識が苦しいから」まさにこれ。私の出る幕はなし、です。やっぱり日本人が思考すれば仏教になるって本当だったんですねぇ。さすが養老先生。

※ちなみに、現在、世界の宗教者が協力して「世界宗教倫理」を作成しようとする動きがあります。全部で7項目くらいの単純なものなのですが、仏教の「五戒」はそのうち四つ(不飲酒戒を除く)が採用される予定みたいです。

こんにちは内田です。
長い質問でしたね。
ご本人もわかっているとおり、これは質問じゃなくて、問題の整理ですよね。
私の回答も釈先生と同じで「好きにしたら」です。
好きにさせてもらうかわりに、どんなことになっても他人のせいにしないということくらいが唯一の条件ですね。
ひとりの異性を何人かでシェアするというのは「あり」だと思います(現にそうやっているひとはたくさんいますし)。
でも、「嫉妬」という感情がなかなか始末に負えないものであることは覚えておいてくださいね。
「この世でいちばん有害な感情は嫉妬である」とたしかココ・シャネルが言ってました(ちがうかも知れません)。
嫉妬は弱い酸のように長期にわたって人間をゆっくり損なうからだそうです。
「ゆっくり」というところが怖いですね。

2006年02月16日

質問35・老師、麻雀の極意を教えて下さい!

Q:
さて、実は今、悩んでいることがあり「インターネット持仏堂」に、つまり釈先生にそのことを相談したいと思います。
ただ、今後、悩みが続出することと思いますので採用・不採用は、ぜ~んぜん気にしません(笑)。
麻雀をはじめたばかりのウルトラ初心者ですが、ようやく「手が揃う」楽しさを知り、その場が上がれそうな状況になるやあたかも思春期の青年のようにいっていっていきまくってやれ~!
という節操のない状況です。
とりわけ、一番にリーチをかけられる状況になった時は胸はどきどき、声はうわずり完全に舞い上がっています。
「リ、リ、リーチ!」と必要以上に声をはりあげ捨て牌を叩きつける。う~。気持ちいい~!
と、その瞬間。
「あ、ロン」。
リーチをかけると、その瞬間にあたられる。それが世の、いや、麻雀の無常(違うか)。ともあれ、上がりをはやり、欲をかくと落とし穴が待っている。まるで実人生…という思いにとらわれ、今度は、必要以上に猜疑心にとらわれリーチをかけなきゃいけないのにあたられるのが怖くて遠回りしてツモ狙い。
しかし、それがまた裏目にでて、役なし(ドラのみ)でロンできずいつまでも上がれなかったり、あせってチョンボ(ロン! と叫んで)したり…。長くなりました。
つまりですね、麻雀って恋の駆け引きのように、いや、それ以上にお相手が多くて難しく、我が心に正直にいくも地獄。いかぬも地獄。そのまた逆もしかり。ココロ裏腹、あ~無情。と思うわけです。
私が憧れる打ち手でもある釈先生はいったいどんなお心で打っておられるのでしょうか。喜怒哀楽が激しく、それもまたいい流れをつくる江さんや内田先生にくらべて釈先生は「麻雀」を達観したようなその牌への姿勢。まるで、牌の川の流れに身を任せるような柔らかさ。実はわたしが憧れ、目指すのは、釈老師のような雀士なのです。

A:
文章が達者なので、つい読み入ってしまいました。笑わせていただきました。
あのね、私を目指すって…。私、昨年の甲南麻雀連盟のケツ二(どん尻から二番目)ですよ!そんなやつを目指してはいけません。
麻雀の人間学は内田先生が壮大な体系を完成させつつあるので、ご登場願うと致しまして(内田先生、どうぞよろしくお願いします。それとも壮大すぎてここではちょっと無理でしょうか)、え~、それでは私の麻雀への姿勢を一言。
もちろん、達観して打っているわけではありません。普通に、勝とうとして打ってます。でも、甲南麻雀連盟にお誘いいただいて、二十数年ぶりに麻雀をやってみると、学生時代とは違って、本筋とは別のところでの面白さにいろいろと気づいたりしております。ご相談者も気づいておられるように、「流れを楽しむ」などというのもそのひとつですよねぇ。あるいは「マン・ウォッチング」。麻雀やっている人って、見ているとすごく面白いでしょ。人間性も性格も垣間見えますよね。だから、ちょっとした相手の仕草や言動がツボにはまってしまったときなど、一人でくすくす笑いながら打っているときがあります。
なにしろ、今は私も「麻雀コミュニケーション」を楽しんでる真っ最中ですので(甲南連盟はほんっとに面白い人が多いんですよ)、心持ちはご相談者とまったく変わらないと思います。ご相談者がこれほどリアルに初心者の心理描写ができるということは、充分に麻雀の楽しさを満喫されている証拠です。この情熱ぶりでは、遠くない将来、J1に昇格間違いなし。

こんにちは。甲南麻雀連盟会長のウチダです。
なぜ麻雀はこんなにおもしろいのか。
これは常住坐臥私の念頭を去らぬ問いであります。
いずれそれに答えを与えることこそ甲南麻雀連盟における「スラッカンのチェゴサングン」であるところの不肖ウチダの職責を全うする道であると痛感しております。
さて、麻雀道においてはいくつかの忘れがたい決めの台詞がございます。
近年私の心に深く残ったことばを再録して、お答えに代えさせて頂きたいと思います。
「麻雀は運だよ」(平川克美)
「人生は麻雀の縮図です」(釈老師)
「振り込むというのはね、タツル、人に幸福を贈るということなのだよ」(兄ちゃん)
味わい深い言葉であります。
拳々服膺していっそう麻雀道に精進されますように祈念致しております。

2006年02月23日

質問36・寝顔と死に顔

Q:
寝顔と死に顔って、どうちがうんでしょうか?(東京都・会社経営・57才)

A:
こりゃまた、これまでのどの質問も凌駕するほどのヘンな質問ですね。なぜそんなことを気にかけられたのか、そちらにも興味があります。
私も数多くの死に顔を見てきましたが、やはり寝顔とはちょっと違うと思います(もしかすると、死に顔なんだという先入観がそうさせているのかもしれませんが)。
なんだかね、寝顔に比べて、のぺ~っとしている感じです。医学的にはどうなのか知りませんが、顔の細かな筋肉にいたるまですべてが弛緩している、そんな雰囲気です。
ですから死に顔をいくら小細工しても、寝顔と同じにはならないんじゃないでしょうか。でも、その反対、生きているが「ほぼ死に顔に近い」というのはあるような気がします。もうずいぶん以前になりますが、酒井雄哉師が千日回峰行(七年かけておこなわれる人間わざとは思えない大変な荒行。比叡山千二百年の歴史で四十人あまりしか達成した人はいない)の「堂入り(九日間、断食・断水・不眠・不臥でお経をとなえ続ける行)」から出堂する姿がNHKで放送されました。私、そのビデオを持っているのですが、お堂から出てきた酒井師の顔を見ると、思わず「そうそう、人は亡くなったらこういう顔になるんだよなぁ」と感じてしまいます。何しろそのときの酒井師は瞳孔も開きっぱなしだったそうですから。

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