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2006年01月 アーカイブ

2006年01月07日

質問30・仏像ってどういう気持ちで見ればいいんでしょう

Q:
釈住職 様  内田先生 様
初めまして。
いつも拝読させて頂いております。
仙台で会社勤めをしている38歳の女です。
以前から考えていたことがありお伺いしたくメールさせて頂きました。
私は大学時代仙台の美術関係の学校で学んでおりました。当時日本美術の授業の一環として京都、奈良にその時代時代の建築や仏像を見学に行ったのですが、その時、一緒に行った友人が法隆寺で見ず知らずの男性に質問されたそうです。「あなたは仏様を見る時にちゃんと信仰心を持って見ていますか」と。美術を学んでいる時でしたので、その時代の様式や建造物の造作にばかり目いっており、信仰と言われると言葉に困ってしまったらしいのです。その話を聞いて以来私も仏像を見る機会がある度に考えてしまいます。仏様にはどのような気持ちで接すれば良いのか。今もその時代に造られた仏教美術に出会うとその素晴らしさに感嘆します。でも信仰は、となると。ご先祖様を敬う気持ち常にあるのですが、やはり仏様を造形的な見方で接するのはあまり良く思われないのでしょうか。もしお時間がございましたら教えて頂ければと存じます。
ひろこ

A:
釈先生からのご回答:
実は、私も結構「仏像好き」なのです。確かに昔から「仏像は美術品じゃない。信仰の対象として見なければならない」という言い方はよくされるところです。
そもそも仏像ってどのような意図によって制作されてきたのでしょうか。
もちろん「信仰の対象」という要素は大きいのですが、他にも観仏などの「修行や瞑想の補助」としても活用されてきました。さらには、「教えの象徴化」という面もあります。
ご存知のように仏像にはさまざまな仏教思想や教義やメッセージが盛り込まれています。そして、仏像は理想の人格モデルとしての意味もありますし、仏教者の霊性が発揮された造形でもあります。
つまり、仏像によって揺さぶられる共鳴盤は一様ではなく、さまざまな方がいろんな回路を開いて通じ合うことこそが本義だと思うのです。ですから、私自身は造形として仏像と出会うことが悪いことであるとは考えておりません。だいたい仏像を拝見するのに、「どのような気持ちで接すれば良いのか」などと悩むことないですよ。誰に強制されたわけでもないのに、好きでわざわざ接しているんですから。「好き」というだけで充分!もう、あるがままに向き合いましょう。そしたらきっと仏の呼び声が聞こえてきます。「どのような気持ちで…」なんて私が考えなくても、仏像のほうから教えてくださいます。この感じ、仏像好きならわかってくださいますよね。ねっ。
ただ、「いかにもモノとして扱う」という不遜な態度で接するのはどうかと思います。なにしろ、その仏さまを本当に自分の拠り所とされている方もおられるわけです。たとえどれほど高名な美術研究者であっても、その方の信仰をないがしろにする資格などありません。ですから、いくら美術的鑑賞が目的であっても、「お数珠は手に持つ」「きちんと合掌礼拝する」などといった礼法は守りたいものです。
また、仏像は美術館や博物館で展示されている状態を見るよりは、やはりそこの寺院やお堂に安置されているお姿を拝見するほうが素敵だと思います。だって、その像だけじゃなく、まわりの建築様式や飾り物など、その場をクリエイトしているあらゆるものの融和によって大きな振動を起こしているのですから。

内田よりの蛇足:
という釈先生の間然するところのないご回答がありましたので、私の方から付け加えることはないんですけれど、釈先生の最後の「その場をクリエイトしているあらゆるものの融和」によって起きる「大きな振動」ということばを見て、私もびりびりと振動してしまいましたので、ひとことだけ。
宗教施設や宗教的なイコンに触れるときにはやはりこの「バイブレーション」を感知するということに集中されるのがことの本質に迫る方法ではないかと思います。
以前、能勢にある多田神社という古いお社に行ったことがありますが、内陣に足を踏み入れた瞬間に「びりびり」ときました。
「おお、すごいぜ」とその振動に「しびれました」。
そのあと、洋の東西を問わず、宗教施設に行くと必ず「ヴァイブレーションの利き」に五感を集中するようにしています。
ヨーロッパの教会もすごいです。
キリスト教の教会はどこも東西に長い十字架のかたちをしているのですが、その十字架の「ぶっちがい」の真下に立つと「来ます」よ。
ノートルダムもですけど、シャルトル大聖堂の「ぶっちがい」下なんかぐいぐい来ますよ。
フランスにコンクという山全体が霊地で修道院が建っている古代の街があります。
そこに行ったときも、「山全体が霊気を発している」というのが想像を絶するものであることがわかりました。
空気の透明感が違うんです。
空気の密度まで違う。
濃いんです。
古来から「よりしろ」とされたのは巨岩や巨木などが多いのですが、そこにあるものが「巨大化する」あるいは「質量の大きいものがそこに引き寄せられる」というスポットはたしかにありそうです。
仏像をどう見るかというご質問からは離れてしまいましたけれど、宗教的イコンもその「意味」を知性的に解釈したり、審美的に鑑賞したりするよりも、まっすぐに身体の芯から「感じる」というふうに向き合うと「来る」ことがあるんじゃないかと思います。
そのときに「来る」ってどういうことだろうと沈思黙考することからあるいは宗教的覚醒が始まるのかも知れません。

2006年01月23日

質問31・名前を忘れてしまうんです

Q:

釈先生 内田先生
はじめまして、いつも拝見させていただいております。
先日、名刺交換をして思ったのですが。名刺交換した相手は、次に会ったとき私のことを記憶しているのだろうかと思ったのです。
私としては少しの時間でも世間話をしたりすると記憶に残るのですが・・・
先日も業界でよく知られた方なのになぜか挨拶を交わす程度だと顔を忘れてしまうんです。
受付で「どなた様ですか」と聞いて、「○○です」と言われ、冷や汗が( ̄□ ̄;)
先生方もたくさんの方と名刺交換されると思いますが、覚えている人と覚えていない人の差はありますか。
誰かの記憶に残るようなるにはどうしたらいいのでしょうか。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
(GalleryK_ササイ・32歳・女性)

A:
 
釈:
私、一度会ったくらいじゃ覚えてもらえないこと、多いです。
どうもあまり印象が強いほうじゃないようです。その上、私自身も会った人のことをあまりよく覚えていないことが多いのです。だいたいにおいて、ぼぉ~っと暮らしていますから。
確かに「覚えやすい人」と「覚えにくい人」の差はありますよね。私の場合はどうも「覚えにくい顔」というのがあるようです。歌手で島谷ひとみさんという人がいるでしょ。私、どうしてもこの人の顔が覚えられないのです。テレビで見るたびに、「この人、だれ?」と聞き、子供に「島谷ひとみ。お父さん、前も聞いてたやん」と言われます。
内田先生は年間かなりの方と出会うそうなのですが、以前「また会いたい、と思わない人は覚えられない」とおっしゃってました。このあたりは内田先生から何か追記があるかもしれません。
ということは、相手にまた会いたいと思わせれば覚えてもらえるわけです。ササイさんが人間的魅力を磨くことによって、いつのまにか記憶に残りやすい人になる、この手がよさそうですね。
でも、名刺交換したくらいで覚えているほうが尋常じゃないですよ。現代を生きるために必要なスキルは適度な情報遮断ですから、「少しの時間でも世間話をしたりすると記憶に残る」というのは至極まっとうだと思います。また、ちょっと会っただけでも誰かの記憶に残ってしまうほど印象が強いのもつらいみたいですよ。友人にそういう人がいます(その人は性格が地味なのに、顔立ちが派手なので、よく誤解されるみたいです)。
ところで、『人は見た目が9割』というタイトルの本が売れているそうですが、それは「内面を隠さずにどんどん表現したほうが良い」という価値観の社会になっていることの裏返しですよね。少し会っただけで全部わかっちゃう人ばかりだと、そりゃ「見た目が9割」になっても不思議じゃないです。逆に言うと、少々内面が薄くても、隠すことで奥行きを出すコミュニケーション・テクニックもあるということです。イスラムなんかだと、「隠したほうが良い」という文化をもっています。
ということで、「一度会ったくらいでは、覚えてもらえない」のも自分の特性と考え、「でも、そのかわり長くつきあえばつきあうほど味の出てくる私。なんて素敵なの」と展開するのはいかがでしょうか。

内田:こんにちはササイさま。
私も(ぜんぜん)自慢じゃないけど、人の顔を覚えないことについては人後に落ちないです。
仕事の話を何時間もしたはずの人とすぐ後に会って「先生!」と呼びかけられて、「はて、この人は誰?」と思うこともしばしばです。
先日はK談社のK藤さんの顔を見て、「誰だっけ・・・」と考え込み(芦屋川のベリーニでしこたまごちそうになったのに)、そのときいっしょにいたU氷さんの顔をみても「あ、この人、見たことがある!」(一週間前に二日連続して取材に来たのに)。Y本画伯の個展では、細面の男性に「先生、もうすぐ締め切りですけど」と言われても、ゲラを取り出すまでそれがN経の私の担当記者であるC葉さんであることを思い出せませんでした。
まして、学生の顔と名前が一致することはほとんどありません。
しかし、これは私どもの業界ではよくあることです。
私よりも遙かに若いI川先生はあるとき電車の中で女学院の学生と思しき学生に話しかけられ、そのまま大学までおしゃべりしながら歩いたことがありました。ところが、学生はいつまでも先生にまとわりつき、研究室までついてきて、研究室のドアを開けるとそのまま入ってきました。ずいぶん図々しい学生だなとあきれた先生が「あのね、これからゼミなんだけど・・・」と言おうとしてやっとその子がご自分のゼミの学生だったことを思い出したそうです。
この手の話にはすごいのがいくらもあって、サイバネティックスの創始者ノーバート・ウィーナーは伝説的な「上の空」の人として知られています。
あるときウィーナー一家は隣町に引っ越しました。奥さんはどうせウィーナー博士は引っ越したことを忘れてしまうだろうと朝大学にでかける博士のポケットに新住所を書いたメモを押し込みました。案の定、博士は上の空で大学からもとの家に戻ってきてしまいました。ベルを鳴らしてもドアがあかないので、博士ははたと昨日引っ越ししたことを思い出しました。そしてポケットから引っ越し先の住所を書いたメモを取り出すと、そばを通りがかった少女に訊ねました。「ねえ、君、この住所どこだかわかるかな?」
すると少女はにっこり笑って答えました。
「ええ、これから連れて行ってあげるわよ、パパ」
ウィーナー博士に比べれば、私どもの「上の空」道の前途はまだまだ遼遠であります。

2006年01月24日

質問32・ひとの咳払いが気になって

A:
内田樹様、釈様
他人の咳払いがここ数年、過剰に気になり外出にも支障が出て困っています。
背後で咳払いが起こると、背中に身体的痛みが刻印されます。
そんな仕組み(ルート)が自分の身体に出来ているようです。
また、嫌な感情として心に残り、エネルギーが急激に低下します。
医者に相談してもダメ、耳栓も外では危険、何か対策としての方法はないのでしょうか。
私のこの喫緊の悩みに知恵をください。
この頃では咳払いがとても増え、頭の中で想像しただけで背中に痛みが走ります。
(横浜市 26才・アルバイト・男)

A:
釈先生からのご回答:
数年来、このような状態が続いておられるとのこと。ずいぶん苦しいことでしょう。おそらくなんらかの精神作用・神経作用なのでしょうね。
お医者さんだって人間ですから、相性というものがあります。特にこの分野では相性の要素が強いようですから、何人かの方を訪ねられるのが良いのではないでしょうか。そうだ、名越先生かドクター佐藤に登場のお願いをしたほうがいいかも。
有名な白隠禅師は、神経症に苦しんだとき、軟酥(なんそ)の法というイメージトレーニングで回復したそうです。自著の『夜船閑話』によれば、「頭痛・胸痛がひどく、肺・心臓が焼け焦げるようだ。両手両足は氷雪のように凍えていて、耳鳴りはやまず、なにごとも億劫。神経は過敏になり、かつ恐怖心にさいなまれる。心身ともに疲れているのに眠れない」といった状況で、何人ものお医者さんを訪ねたがうまくいかず、最後にこの療法にたどり着いたということです。酥というのはチーズのようなもので、野球のボールくらいの酥が頭の上に浮かんでいるのをイメージします。それが次第に溶け出し、体中に染み込んでいく有様を瞑想するのが軟酥の法です。現在でも、内観法や森田療法など、仏教を基礎にした精神療法は結構ありますので、一度試されてはいかがでしょうか(書籍やネットで簡単に道場や病院を見つけることができます)。
 ご本人も「そんな仕組み(ルート)が出来ている」とおっしゃっています。仏教とは、このような自分で作り上げているルートを解体するための体系だと言えます。ですから、仏教の実践がうまく機能すれば解決の糸口になるような気はします。少しばかり仏教を知ったからといって、即効性はないでしょうが(また即効性のあるものは、副作用も強いように思います)、「数年かかって悪くなったものは、数年かけてしか良くならない」という気持ちで、今の痛みとうまくつきあいながら、徐々に心身のバランスを取り戻すイメージをもつのが良いのではないでしょうか。

内田:
とても興味深い症例ですね。
他人の咳払いが器質的な刺激である可能性はきわめて低いので、心理的な原因によるものだと思います。
「咳払い」は「免疫システム=自我にとって〈他者〉であるもの」を吐き出すための生理的反応ですから、それを背中に受けると不快を感じるというのは、あなたが咳払いを「記号的」に解釈しているせいとだと思います(他人の咳払いに物理的な攻撃が含まれているという可能性は少ないですから)。
いちばん一般的な解釈は「おまえは他者だ」という名指しに対する不快だと思うのですが、誰だって他人から見れば他人なわけですから、そんなことでいちいち傷つくというのでは説明になりません。
「記号的解釈」といいましたけれど、あなたがどういう記号体系によって世界の出来事を解釈しているのかについてある程度のことがわからないと、うかつなことは言えないですね。
咳払い以外にあなたが強く否定的な反応する他人の行動というのがあれば、教えて頂けませんか?
私が回答を留保するということはあまりないんですけれど(主たる理由は「なもん、どうだっていいじゃん」という態度の悪さのせいですが)、あなたの症例はとても興味深いので、もう少し詳しいことをお訊きしたいです。あなたの症状の緩和には直接役立たないかもしれませんけれど。

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