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質問66・命名について

Q:
釈住職様・内田先生へ

毎回、楽しく拝見させていただいております。
さて、ひとつお伺いしたいことがありまして、メールしました。
それは「命名」についてです。
最近、私は子どもが生まれたのですが、初めての子どもで、私自身生まれて初めて名前を考えるという作業をしました。
その際、命名に関する書籍の多さに驚きました。そしてその内容も多岐にわたり、本によって全く違うことが書かれています。
結局は本などは参考にせず、夫婦で考えた名前に決着しましたが、仏教的な立場では「命名」という行為はどのように扱われるのでしょうか?
また、「命名」のための方法論のようなものはあるのでしょうか?

仏教で「命名」というと戒名を思いつきます。生まれたときには親から名前をもらい、往生のときにはお坊様から名前をもらうということを考えると、お坊様もまた名付け親ともいえる存在なのかなとも思ったりします。

また、内田先生のお子様も個性的なお名前だと感じました。内田先生の本を読んだときにはしばらくは仮名だと思っていました。もし可能であれば、内田先生の「命名」に関するお考えもお伺いできればと思います。
お忙しいかと思いますが、ご指導いただけると幸いです。
よろしくお願いします。

ぶんた・26歳・男

A:
 4世紀、中国仏教大成者である道安は、「出家者は釈の苗字を名乗るべきだ」というムーブメントを興しました。出家するということは、それまでの血縁や地縁の系譜から脱することですから、従来の苗字を捨てて「釈(釈尊の弟子という意味)」にすべきだというわけです。ですから、日本でも、仏教徒のことを「釈氏」とか「釈子」とか呼んでいました。
 私の苗字は「釈」ですが、かつては「釈氏(しゃくし)」だったようです。以前、内田先生がブログでも書いてくださっていましたが、「ネコもシャクシも」は、「禰宜も釈氏も(ねぎもしゃくしも)」つまり「神官も僧侶も」というのがなまったものだ、ということです。ただ、これ、諸説あるようで、落語「浮世根問(うきよねどい)」では、「女子も赤子も(めごもしゃくしも=女も赤ちゃんも)」だったんだと言っています。いずれにしても、「猫」と「杓子」じゃ並列にはなりません。
 さて、亡くなって戒名をつけるのは、死者を「出家者」として扱うためです。本来、仏教では、僧侶は死者儀礼に関わりません。死者儀礼は世俗の習慣です。そのため、世俗からの脱出を目指す出家者がすべきことではないと考えたんです。
 しかし、昔から同じ僧侶仲間の葬儀は執行しました。同じ共同体(サンガと言います)内の出来事だからです。
 というわけで、死後であっても、とにかく出家者という態にして葬儀を行うために、戒名をつけます※。もちろん、本来、戒名や法名や法号は生前につけるものです。現状は、死後の諡号(しごう:おくり名)と習合してしまっているんですね。

 さて、命名のお話ですが、私個人の意見としては「他者が読めないような名前」をつけるのはどうかと思っています。そもそも名前は他者が使用して初めて機能するものです。それなのに、誰も読めないような名前をつけてどうするんでしょうか。名前の機能に対して鈍感な証拠です。
 「他者に読めない」=「他者とは違う個性」という図式でしょうか。めずらしい氏名をもつ者の苦悩を知らないんですねぇ。私などは、生まれた時から「釈徹宗」なので、鈴木さんや山田さんがうらやましくてしょうがなかったんですよ。苗字がめずらしいなら、なぜせめて名だけでも平凡なものにしなかったのか、とよく親に対して文句を言いました。
 とにかく、氏も名も、日本ほど多様な国は無いそうです。多くの民族・文化では、聖人の名前や先祖の名前を名乗りますから。また、本来、命名は極めて宗教的な作業です(だから名づけ親は“ゴッドファーザー”なんですよ)。

 以前、内田先生に「改名文化は大切だと思います。昔の元服みたいに成人したら名前を変えるということにしたら、きっとかなり大人の社会になると思います」というお話をしたことがあります。そしたら先生は、「成人したら読みを変えたらいいんだよ。それまでは“テツムネ”だったのが、成人したら“テッシュウ”にするんだ」と返答されました。いやぁ、すごい方です。こんなことすぐに思いつく人は他にいません。
 名前に関する宗教性と社会性については、いずれ発刊される予定の『インターネット持仏堂3』で詳述しておりますので、お楽しみにしてください。

 それで、ご質問は「仏教的な立場では命名という行為はどのように扱われるのか」「命名のための方法論のようなものはあるのか」ということでした。
 “命名という行為”は、「それまでの私が死して、新しい私として再生する」ことの象徴です。これは、仏教に限らず、すべての宗教において見られます。その意味では、仏教も同じなんですね(ただ、初期の仏教では、特に「ブッディスト・ネーム」といったものを使ったりはしなかったみたいです)。
 また、“命名の方法論”ですが、基本的には「釈○○」といった形態にします。釈という苗字と、漢字二文字の名前の組み合わせです。やはり中国の氏名が原型になっているんですね。多くの場合、「仏典」に出てくる言葉や字を使って、師や善知識(仏法の指導をする先輩)が、弟子や後輩に命名します。

※ただ、この説明はかなり一面的で大雑把です。葬儀や戒名に関しては、他にもさまざまな意味づけがなされています。

内田樹です。
名前をつけるという行為は生身の人間をキャンバスにして絵を描くとか、生身の人間を原稿用紙に擬して小説を書くとか、そういうことに似た創造的な営みだと思います。
ことばには「呪力」があります。
ことばで人を縛ることができる。
逆にことばには「予祝」の力があります。
ことばによってあらかじめさまざまな将来の禍根を取り除いておくことができる。
God speed you!なんていうのはそうですよね。(この場合のspeedは「足を速める」という意味の動詞です。旅ゆく人に対する祈りです)。
ですから子供に名前をつけるというのは、災厄を避ける祝福にもなるし、場合によっては子供の生き方を制約する呪いにもなります。

中世の日本では子供に幼名というものをつけましたが、これは「犬千代」とか「捨松」とかいう「獣や価値のないもの」を表象するのが習わしでした。
弱い子供を「邪悪なもの」から守るために、「これはほんとうにつまらないものですから、どうぞおめこぼしを・・・」という親の祈願を込めた命名だとされています。

ですから、ある程度成長を遂げたら、「プロテクションとしての幼名」はリセットしなければいけません。
武士の場合は元服したら名前を換えますし、商人でも屋号のある場合は「第10代なんとかざえもん」というように社会的立場を表す名前になります。
これらの名前はその人の個性や独自性よりはむしろ非個性、代替可能性を示しています。
つまり今聞くと大変不思議なことですけれど、「余人を以て換えることができる」というのが伝統的には成人=社会人の条件だったのです。
でも、これは卓見ですね。
「余人を以て換えることのできる人間になる」ことをめざす自己形成って。
これって言い換えると「自己評価と外部評価の乖離がなくなった状態」ということですからね。
それが「大人の条件」である、というのはよくできた話です。

そのあと、隠居名というものがあります。そのあと、贈り名とか戒名とか、いろいろ人間的ステイタスを示す名前が重畳するわけです。
それらの複数の名前とそれが表すさまざまな年齢におけるその人の社会的はたらきの「和音」としてひとりの人のありようが結像する。
なかなかよくできたシステムだと思います。

名前は生涯にイッコだけ、というのはそういう点ではずいぶんと不便なことですよね。
これらはすべて国民国家が「ID」というもので国民を標準的に管理することの必要性から出てきたことで、こちらにとってはいい迷惑です。

幕末新撰組の近藤勇は幼名が宮川勝五郎、島崎勝太、島崎勇、近藤勇、大久保剛、大久保大和・・・となんと5回も名前を換えています。
IDなんかない時代ですから、戊辰戦争の途中、流山で官軍に降伏したときも「大久保大和です」と名乗っていたので、そのまま放免されかけたところ、たまたま京都で近藤を見知った官軍兵士が「あら珍しや近藤氏」と見とがめたせいで捕縛、ついに斬首されてしまったのでした。
写真も住民票もない時代ですから、名前を換えちゃえば別人になって暮らせることができたのです(そうすればよかったの、と思いますけど)。

だから、新撰組のドラマなんかでも、ほんとうは「近藤さん」というような呼びかけがなされるのは一時期だけで、甲府に鎮撫隊でゆくときは「大久保どの」と言い換えなければいけなかったんですけれど、どれほどリアルなドラマづくりをめざす脚本家もしませんね。
でも、それはそれだとドラマのつながりがわからなくなってしまうというのは、「生涯に名前はひとつ」という陋習に私たち自身が深く捉えられているからだと思います。

閑話休題。
というわけですから、命名については幼児においては「霊的プロテクション」として機能し、成人後は「代替可能な名前」として機能するようなもので、老人になって名乗っても十分つきづきしいもの、という条件を満たさなければなりません。
めんどくさいですね。
だから、あんまり「かっこいい」名前をつけるとあとが大変ですよ。
うちの娘につけた「るん」という名前は、森鴎外の「じいさんばあさん」という短編から拝借しました。
主人公のおばあさんの名前なんです。
おばあさんになってもかわいい名前、というのでこの名前を採用しました。
なかなか配慮のゆきとどいたネーミングでしょ?

欧米は名前を変える習慣がないので、子供でも老人でも違和感がありません。欧米名を借りる人が多いのはそのせいでしょうね。
鴎外は娘に「茉莉」(マリ)、「杏奴」(アンヌ)、息子には「於菟」(オットー)と欧州的な名前をつけていますけれど、これも賢い方法ですね。


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2007年12月06日 17:34に投稿されたエントリーのページです。

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