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2005年12月 アーカイブ

2005年12月07日

質問27 「まんまんちゃん、あん」の語源は?

Q:
関西出身です。
私は、今でこそ「南無阿弥陀仏」と唱えて仏様を拝むようになりましたが、子どもの頃は『まんまんちゃん、あん』と言いつつ、神様、仏様、お地蔵様に向かって手を合わせていました。
この「まんまんちゃん、あん」という言葉なくしては、私と仏様との出会いはなかったと言えます。(「あん」は厳密に言うと「あんっ!!」です。若干気合を入れます)親からも「まんまんちゃん、あん、しなさい」と仏壇の前で言われたし、近所の友だちも「まんまんちゃん、あん」と言って拝んでいたような気がします。
しかし、先日、東京にて、この「まんまんちゃん、あん」の話をしたところ、「わっははは!そんなの聞いたことない!もしかして、宇宙人?」と大爆笑され、私は、関西人どころか地球人であることすら認めてもらえませんでした。
この「まんまんちゃん、あん」という言葉、いったいどこから出てきたのでしょう?確か釈先生も関西ご出身ですよね?先生ならきっと、いやぜったいにご存知ですよね?ね?
どうか、私を「宇宙人」から「地球人」に戻してください。
よろしくお願いいたします。
(ペンネーム/ふじちゃん)

A:
爆笑っ! これ、笑いました。何回、読んでも笑っちゃう。秀逸、秀逸。
「まんまんちゃん、あんっ」、もちろん知っていますよ。間違いなく言います、関西地方では。確か「やすし・きよし」もギャグにしていたときがあったのではないかと記憶しています(誰か確かなこと、知りません?)。
おそらく語源などというたいそうなものはないのではないでしょうか。たぶん、幼児言葉だと思います。「まんまんちゃん」は「仏さま」の幼児語です。他にも地方によって、「ののさま」とか「のんのんさま」などと言ったりもします。幼児語って、いったいどこから来たのかわからないのが結構あるんですよね。自動車を「ブーブー」というくらいは、擬音からできたのかなぁ、となんとなくわかりますが、座ることを「おっちん」とか、おんぶのことを「ぱっぱ」とかいうのは、なんなんでしょうか。えっ、知らない?
「あん」は、頭を下げる行為をうながす幼児語だと思います。子供の頭を下げさせるときに、「はい、あんしなさい。ねっ、はい。あんあん」とか使ってたような記憶があります。
あら?「宇宙人」から「地球人」を通り過ぎて、「幼児」にまで戻っちゃっいましたか!?

2005年12月13日

質問27への追伸

追伸:
「ペンネーム・ふじちゃん」さんから、掲載御礼のメールが届きました。実は、今までも御礼メールを数人の方からいただいております(どうも「コメント」がしにくい設定になっているらしいです)。ウェブ上の応答に対して、わざわざ御礼の言葉をいただき、こちらこそこの場をお借りして、みなさまに感謝申し上げます。
ところで、「ふじちゃん」から届いたメールには、内田先生のブログで紹介された「こんにゃく問答」のことが書かれていました。それによりますと、「ふじちゃん」は噺の内容は知っていたのに、「こんにゃく問答」という言葉はつい最近まで全然知らなかったそうです。で、以下のように書いておられます。
>内容ははっきりと覚えているのに、なんで「こんにゃく問答」という言葉を知らなかったのか・・・そこが謎なんです。結局、自分の言葉として、身につかなかっただけなのかもしれない>
この謎(まあそんなたいそうなものではありませんが)に関して、私にちょっと心当たりがあります。実は関西では「こんにゃく問答」というタイトルではなく、「餅屋問答」と言うのです。噺の内容は同じなんですが、こんにゃく屋が餅屋に変わります。【質問27】にもありましたように「ふじちゃん」は関西人。そこで、「噺は知っているが、こんにゃく問答という言葉には覚えがない」ということになったのでは。
以上、蛇足ながら、追伸させていただきました。

質問28 小説と「師」

Q:
30歳男性です。

小説を書いております。
ある方に師事をして、数冊の商業出版を刊行するという実績を得ました。
その後、その方のもとで学ぶことは学んだ、と独立して、現在に至っております。
(別に、喧嘩別れなどではなく、自然の成り行きとして、そうなっています。念のため)

その時の経験で、自分が、どういうことをすればいいのかを、なんとなくではありますが、掴んだつもりです。
ですが、今後、その掴んだ方向性を試していくには、やはり、私一人の力ではどうにもならないことが多く、新しい師、(この場合、話を聞いてもらえる編集さんや、経験のある先輩作家さん、ということになるかと思います)が必要であることを痛感しております。

そこで、なのですが、私は血眼になってでも、その「師」に当たる人物を探し求めるべきでしょうか。
こんな質問をいたしますのは、数冊分の小説を書いた時の経験で、小説は向こうから依頼があり、それにこちらが懸命に応える、そういった一種の契約があって、初めて成立するものだと感じたからです。
間違っても、自分で原稿を用意して、それを売り込むものではない。そういうことをしている物書きは大勢いますが、私はそれが本質ではないのではないかと思っております。

人間のポテンシャルは、向こうから来た依頼に懸命に応えようとすることで上昇するものだと思いますし、そういう思いで書かれた作品と、売り込みを前提に自分で書いた作品とでは、やはり、出来上がった時の艶が、まるで違うように感じます。
ですので、あまり「オレが、オレが」とぐいぐい前に出て行くのは、かえって小説の技量を萎ませていくだけのような気がしてならないのです。

ですが、全くアピールすることなしに、話が来るとも思えません。
「俺は、こんなことがやりたいんだ!」と、声に出して叫ぶことも必要でしょう。

そこで迷いが生じています。
私は、私の考えを受け入れてもらえる人を血眼になってでも探すべきなのでしょうか?

それとも、静かに暮らしながら、縁を待つべきなのでしょうか?
(とはいいましても、今、とくにやらなければいけない仕事があるわけでもないのですが)

私の考えは、小説の今日的な意義や需要、自分の適性、そのジャンルにおいての必要性や新たな可能性を、それなりに考慮したものであり、昨日今日の思いつきではないと思います。
自ら動くべきか、待つべきか。
どうか、ご意見を賜りたいと思います。

なんとも、身勝手で、抽象的で、訳の分からない質問ですみません。
こういう質問は、なかなか話せる人がおりませんので投稿させていただいたのですが、

訳がわからないようでしたら、没にしていただいて結構です。

とはいいつつも、お導きいただけるようでしたら、どうか、よろしくお願いいたします。

A:
今回は、講談社に奉職して四半世紀、職業(プロ)編集者として泣く子も黙る加藤晴之氏※(ご本人いわく、「釈さんとたつるさんの原稿を、おそろしくクビを長くして待っている衆生の編集者」)をゲスト回答者にお迎えしてお送りいたします。
よっ!待ってましたー!!
※ http://blog.tatsuru.com/archives/001023.phpをご参照あれ

小職、ある専門誌の連載原稿で、「もの書き」と「編集者」の関係を明らかにするための一覧表、つーものを発表しました(以下)。
編集者                ライター
(書き手=雑誌記者、作家、ジャーナリストなどなど)
キャディ(横峯良郎)        プロゴルファー(横峯さくら)
トレーナー(クリント・イーストウッド)ボクサー(ヒラリー・スワンク)
丹下段平              矢吹丈      
ひも                 ストリッパー
猛獣つかい             ライオン
マネージャー            タレント(歌手)
秀才                 天才
おわかりになりますか?
あるいは、作家が「石に泳ぐ魚」であるならば、編集者は「紙に泳ぐ魚」でしょうか?
魂の血を流しながら泳ぎ続ける異能の人々が命を削って取材し書いたものを、ときに励ましたり、助言しながら書籍や雑誌記事という「作品(商品)」に仕上げていくのが、出版社に勤めるわれわれ職業編集者の役割です。
もの書きがもの書きであるためには、たいへんな業を背負うことを覚悟しなければなりません。
林真理子さんが、『週刊文春』で連載しているエッセイで、過日放映された「女の一代記・瀬戸内寂聴」をご覧になった感想をお書きになっていました。
瀬戸内さん役を、宮沢りえちゃん(というよりこちらも、さん付けですね、貫禄の名女優になりました)が好演していましたが、その中で、伝説の編集者・斎藤十一さんが登場します。瀬戸内さんが「花芯」という小説を書いたところ、世の評論家たちが、あまりにもエロティックで下品な小説だとクソミソにけなしたとき、反論を書かせてほしいと、斎藤さんに懇願します。そこで、彼は瀬戸内さんに言い放ちます。
「あんた、駄目だね、作家なんか自分の恥を書き散らしておまんま食べる商売なんだからね」
じつは、この斎藤さんが、林さんに真杉静枝という小説家の生涯を書くことをすすめたらしく、林さんは、作家という業を背負うご自分を重ね合わせながら「女文士」という伝記小説をお書きになります。

閑話休題。新潮社の天皇ともいわれた、斎藤さんの一見乱暴な言葉は示唆に富んでいます。
孤高のボクサーである「もの書き」は、自分を鍛え上げてくれる名トレーナーを求めますが、その前に、もの書きというボクサーが、兼ね備えるべき絶対条件があります。
それは、斎藤天皇がいっているように、魂の血を流すことをいとわない狂気です。
小説の今日的な意義や、自分の適性うんぬんかんぬんされているうちは、たぶん、もの書きというボクサーになってリングを血で染める根性と体力がまったくない、とここで思い切り断言しておきます。
「うだうだいっとらんで、ともかく獰猛なテーマに向かって死ぬきでかからんかい、ワレ!」とつい大阪出身者である地をだしてしまいましたが、亀田三兄弟を見習って、言語の必殺パンチを磨いてください。
以上、体育会系編集者より。

以下、ウチダより。

加藤さん、先日はどうもご無礼を致しました。

さて、編集者と物書きの関係についてウチダからもひとこと述べよという本願寺のフジモトさんからのご下命でありますので、私からもひとこと。

私は編集者ではなくて、書く方ですので、その立場から。

私は「プロの物書き」というスタンスを採用しておりません。
私はアマチュアの物書きでありまして、書いたものが売れなくても、批評家に評価されなくても、別に明日の米びつに影響がないという気楽なライフスタイルでやっております。
それは、そうじゃないとすらすら書けないからです。

私自身は加藤さんの言葉を借りて言えば、「物書きのとしての業」を負う覚悟のない人間です。
「そういう人間は書くな」というおしかりを受けたこともありますけれど、自分が書きたいから書いているので、書くことがなくなったら書かないし、他のことに忙しくて書く暇がなければやっぱり書かないという構えが私の場合は「性に合っている」のです。
もちろん、こんな構えにはまるで汎用性がありませんので、誰から構わずお薦めすることはできませんが、それでも、原理的には「ものを書く」ということは、自分のなかの「もっとも汎用性のない部分」を「一般的に了解可能な準位のことばに置き換える」という作業ではないかという考えは変わりません。
だとすれば、書き手にとって「師」というのは、本人以上に本人の「汎用性のなさ」に気づき、それを「一般的に了解可能な言葉にする」ことを導いてくれる人、さらに言えばその仕事に愉悦を感じてくれる人のことではないかと思うのです。
「師」が書き手を鼓舞するのは、「私が理解しなくて、誰が理解するか」という「母性愛」に類する思い込みのような気がします。
そういう盲目的な「母性愛」をかき立てるだけの「サムシング」があるかどうかというのが「弟子」である書き手の側の問題なんだろうと思います。

私自身は、「君の書くものが読みたい」という読者が出現するまで、25年ほどぼおっとしていました。
25年間誰からもそういうリクエストがなかったのは「書くべき時ではなかった」ということだと思います。
あらゆる出会いは「出会うべくして」成就するというのが本当なら、あなたの書くものを「読みたい」という「お声」がかかるまでぼおっと待っているというのもあるいは「あり」ではないかと私は思います。
誰からもそういう声がかからなかった場合には、「お呼びでない?こりゃまた失礼いたしました」と破顔一笑して立ち去るというのも、ひとりの人間としてはなかなかにいさぎよいあり方ではないかと思うのであります(「無責任」でごめんなさい。今日、植木等の『無責任ボックス』がアマゾンから届いたので、これから見るところなんです)。

2005年12月28日

質問29 ハラを鍛えて、透徹した目をもちたいんです

Q:
釈住職、内田先生
始めて投稿させていただきます。 京都の大学院生です。

相談させていただきたいのは、判断の際に人の意見に簡単に左右されてしまうことです。
しかも後になって違う意見を聞くと、それにも一理あり、と思い、あの時の判断は間違っていたのではないかと悶々とすることになります。
これは「自分で判断していない」ということなのかもしれません。
常日頃、ハラの据わった人でありたい、自分の言葉に自分で責任を持ちたい、と考えているので、このような状況がとても心苦しいです。

ハラを鍛える、透徹した目を持つ、ことへのご助言をいただけますと、とても幸いです。
(ただ、このようにお言葉を仰ぐということ自体が、判断を投げる行為にあたるのではないかとも思うのですが。)

ペンネーム:たそかれ(女性、24才)

A:
(釈)
ははあ、私も似たようなタイプなので、お気持ちはよくわかりますよぉ。こういうご相談は、もう、内田先生が見事に導いてくださりそうな気がします。そちら期待ということで、私は簡単に。
ハラの据わった自分の判断、などというものは出そうと思って出るもんじゃない気がします。むしろ、出さずにはおれない、といった性質のものじゃないでしょうか。そして、それはそのうちいやでも出てくるんじゃないでしょうか。だって、自分の判断をいつも保留している中年のおじさんやおばさんってあまり見ないもん。いくら歳を重ねてもなかなか自分の意見や判断に絶対的自信をもてない、何が本当に正解なのかよくわからない、という姿勢を保持し続けている人がいるなら、それはそれでたいしたものだと思うのですが。
今の「たそかれ」さんには、「聞く姿勢」が充分にあるというなかなか素敵なパーソナリティなんじゃないですか。実は私、この「聞く」という行為を最近特に注目しております。例えば浄土真宗は「聞く」という姿勢を最も重視する仏教でして、「光を聞く=聞光力(もんこうりき)」という不思議な言葉もあります。
確かに「自分の判断を保留して、どの視点も相対化する」というのは、偏見なしに判断するための前段階ですので、いずれは次のステップ(軸を形成し、自分のポジションやスタンスを明確にし、取捨選択する)へと進まねばならないでしょう。でも、今しばらくはそのスタイルでいくというのはいかがでしょうか。

(内田)
え?ぼくも回答するんですか?
えーとですね、まず「第一印象」について申し上げますけれど、「第一印象はだいたい正しい」ということがあります。
人間についての判断を下す場合、情報が少ないときにこそ私たちの無意識的なセンサーの感度は最大化します。
わずかな非言語的なシグナルを解析して、「この人は自分の生存にとって有利な個体か不利な個体か」ということを私たちは瞬時に判断してしまうのです(すごいですね)。
でも、そういう能力が備わってなければ、人間は原始の時代を生き延びることができたはずもありませんし、ここまで生き延びてきたということは、そういう能力にとりわけすぐれた個体の子孫なわけですよ、われわれは。

ですから判断に「迷う」というのは無意識的=非言語的なレベルで下した「判断」と意識的=言語的なレベルでの判断のあいだに齟齬がある、ということですよね。
ここに齟齬がない人はそもそも「迷う」ということがありませんから、あなたは無意識的なレベルでの感知能力がかなり高い人であるということになります。
それも、一般的には「こっちのほうが正しい」と言われることについて、無意識的には「それはダメ」という信号を受け取っているから混乱してしまうわけですよね。

私の答えは簡単です。
もちろん、自分を信じなさいということです。
だって、あなたが生き延びて愉快に生きることを誰よりも優先的に気づかっているのは、あなたの内臓であり、骨格であり、神経系なんですから。
他人の言葉なんてムシです。

さて、そういう私の言葉をあなたはどんなふうに受け取ったでしょう?
これを聴いて「ますます迷ってしまう」ようでは、困りますけど。

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