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2006年12月 アーカイブ

2006年12月27日

質問・46 築地本願寺の宝塔はどこに?

Q:
昔(60年代か70年代)読んだマンガに、怪盗vs名探偵モノがあって、 その怪盗が「築地本願寺の宝塔」を盗むシーンを何故か覚えています。警察の警備は厳重なのですが、それをあざ笑うかのようにアッという間に盗まれたのが印象的でした。あれ、何のマンガだったかなぁ…?
(ペンネーム 39%野望・男・48歳) 

A:
えっ、そんなの知りませんでした。
私、60年代後半から70年代前半のマンガはほとんど読んでいるはずなのですが…。
すみません、お役に立ちそうにありません。申し訳ないです。私もときどき「あれは、なんというマンガだったか」という難問に悶え苦しむことがあるので、お気持ちはお察しいたします。
ん? 築地本願寺に「宝塔」などありませんが…!?


質問・47 強く望んではいけないのでしょうか?

Q:
教えてください。
仏教では煩悩なんてことを言いますね。煩悩の中には「欲望」があるんですよね。その「欲望」と、「祈り」や「願い」とは違うものなのですか?
好きな人に会いたい、大事な人の病気が治って欲しい、商売繁盛家内安全天下泰平。
色んな願い事があり、色んな事を祈りますが、それらの元を辿れば、すべて自分の欲から出ているものではないでしょか?
祈りも願い事もすべては「欲望」ではないのですか?
私には今、願い事があります。願いが叶って欲しいと思っています。自分ではどうしようもないので、仏や神にすがって叶えて欲しいとお願いしたいのです。
「欲するものは手に入れられる」とか「強く願えば、願いは叶う」とか言う人がいます。本当でしょうか?
強く願う程、欲望を増大させているような、いけない事をしているような気になってしまいます。
(ペンネーム・みかずき・女・40歳)

A:
仏教の語る「煩悩」とは、悟りへの道を妨げるものを指します。ですから、「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように」とか、「すべての世界が平和でありますように」といった、自己中心的でない願いや祈りは煩悩ではありません。
そもそも煩悩とは、文字通り「私を悩み煩わせるもの」ですから、苦悩を生み出す原因です。心身の平安と静寂をもたらすものは煩悩とは呼びません。つまり祈りや願い事はすべて欲望(欲求)である(欲求と欲望の違いは『インターネット持仏堂』をごらんください)ということは可能でしょうけど、すべてを煩悩とするわけではありません。そしてその判断基準は、自我を起点としたお願いかどうか、ってことです。
「強く願えば欲するものは手に入れられるというのは本当か」と問われれば、「本当ではありません」と応えざるを得ません。もちろん、強く願えば手に入れることができる可能性は飛躍的に上がるでしょう。でも、どうしようもないことは、やはりどうしようもない(ひどいトートロジーやなぁ)。生きるということはそのような解決不能の苦しみを引き受けていくことである、それが仏教の知見です。みかずきさんが、「強く願う程、欲望を増大させているような、いけない事をしているような気になる」という感性は、すごく仏教的だと思います。そのリミッターがある限り、みかずきさんは大丈夫です。
さて、現在、みかずきさんには、どうしてもかなえたい願い事がおありのようです。そこで、それがかなうかどうかはともかく、それをかなえようとするプロセス自体を楽しむ、というような方向へと転換してみてはいかがでしょうか。ちょうど、タイムレースから、お散歩へと転じるようなイメージです。
もしかしたら、すごく深刻な願いで「なに気楽なことを言っとるんじゃ」とお怒りかもしれませんが、自分自身の認識を転換するところから仏教は始まりますので、私が応答するとどうしてもこのようになります。

ウチダからもひとこと:
ペンネーム、うっかり「みずかき」と私は読んでしまいました。
わお、なんというシュールなネーミングだろうと感動したのですが、「みかずき」だったんですね。
私の師匠は「ウチダくん、強く望んだことは実現するよ」とおっしゃっておられましたので、それを聴いてからはずっとなにごとも「強く望む」ようにしております。
「強く」というよりは「具体的に」ということなんですけれど。
例えば、ぼくはいま合気道の道場が欲しいと思っているのですけれど、ただ「道場が欲しい」と念じるだけではなくて、具体的に道場の間取りとか、年間行事予定とか、稽古指導の分担表とか考えています。
すると、まわりの門人たちもだんだんその気になってきて「先生、道場のロッカーに私物を置いてもいいですか?」とか「車停めてもいいですか?」とか具体的なことを訊くようになってきました。
こうなると道場ができることはもはや既成事実で、あとは「いつ」という時間の問題だけ、というふうに思えてしまいます。
そうなると、今度は道場ができたあとに起きるさまざまなやはり具体的な問題(固定資産税の支払いとかトイレの掃除は誰がするのか、とか)のことを考え出すようになります。
そんなを考えているうちに、何となく「道場があるのも善し悪しだわな」というような気分になるから不思議です。
つまり、欲望が実現された状況を細部まで具体的に想像しているうちに、欲望そのものがいつのまにか鎮静してしまう。
「好きな人と会いたい」にしてもそうです。
「好きな人」と仲良くなるプロセスを具体的に細部にわたり想像しているうちはけっこうわくわくしますが、やがて新婚の日々も去り、十年経ち三十年経ち、ともに白髪の生えるころに縁側で渋茶を飲んでい老夫婦の会話などを微細にわたって想像していると、「まあ、いろいろあったけれど、この人じゃない人とだったらまた別の人生があったかも・・・」などと考え、やけつくような欲望も気づくと消え失せている・・・というようなことがあります。
具体性を欠いた「記号的な欲望」は危険なものですが、「具体的細部まで熟知された欲望対象」はそれほどの実害をもたらすことはありません。
こういう想像力の使い方はあまり薦める人がいませんが、すぐれた欲望鎮静作用があると思います。

質問・48 哲学(者)と思想(家~の違いは何でしょう?

Q:
釈住職様、初めまして。
東京都在住、42才デザイナーのペンネームakiと言います。
質問があります。宜しくお願いします。
「哲学(者)」と「思想(家)」の違いはなんでしょうか。
辞書で調べたところ違いがはっきりわからなかったので、物知りの兄に聞いてみたら、「哲学はギリシャで生まれたものだから、ギリシャ哲学そのもののこと、思想はそれ以外ではないか」と教えてくれました。
なんとなくわかったのですが、それだと「インド哲学」というのは哲学ではないのでしょうか。
更に「人生哲学」という言葉も、ギリシャとはなんの関係もなさそうなところで使われているような気がします。

A:
この質問については、私よりもうまく説明できる人が多いと思いますが、とにかく私の印象でお話します。
「哲学(者)」と「思想(家)」という領域って、多くの部分が重なっているんですよね。「あまり変わらない。そんなのどちらでもいい」という人もいれば、「いやいや、それは、これこれこのように違うのである」という人もいます。その人その人の「哲学」や「思想」の定義によって、相違するんですね。
「哲学(philosophy)」よりも「思想(thought)」という用語を積極的に使いだしたのは、それまでの西欧中心だった知の体系に対するカウンターだと思います。構造主義などを先駆として、知の体系が大きく変化したときに、従来の哲学という言い方を避ける傾向が出てきたようです。
よく使われる区別としては、(せまい意味での)哲学は学問的手続きであり、思想はもっと日常の生の営みに根ざした取り組みである、という言い方です。確かに、現代思想では、社会・宗教・芸術・性など、あらゆる場面や現象を知の対象にします。つまり、哲学よりも思想のほうが、カテゴライズされにくいので、かえって使い勝手が良いということもありそうです。

質問・49 どうして現代人は京都に惹かれるのでしょう?

Q:
「京都検定」なんてのも出来、「京都ブーム」というものがおこっているように感じる「京都ファン」のひとりです。
なぜ、現代人は「京都」に惹かれるのでしょう?
(東京都・あみん)

A:
人間国宝・桂米朝の「鹿政談」に、三都の名物という<言い立て(つらつらと決まり文句を語ること)>があります。
その中で、京都の名物は「水、壬生菜、女、羽二重、みすや針、寺に、織り屋に、人形、焼き物」となっています。
まあ、京都にはもっといろんな名物があると思うのですが、この言い方にはいろんな要素が語られています。
●水・壬生菜…水が良く、野菜がおいしいという土地事情は、食文化や居住性のレベルを高く維持したでしょう。
●女・羽二重・みすや針…「大阪の喰いだおれ、京の着だおれ」って言うくらいですから、女性も美しく、衣装・服装の文化も発達しているんですね(みすや針というのは、かつてとても有名だった縫い針のことです。みっしゃ針と発音します)。
●寺・織り屋・人形・焼き物…そして各宗派の本山が集まり、代表的な寺社仏閣がいっぱい。さらに、産業や技術やデザインの感性も優れている。そんな要素が名物として数えられているんでしょうね。
一般にイメージされる<京都>はかなりせまい範囲です。京都市11行政区よりもさらに小さい。さらにそのせまい範囲に、大きなものだけでも「祇園」「西陣」「室町」と三つも文化圏があります。また、実は京都には平安の建物は残ってません。すべて、鎌倉以降。千年の都でありながら、奈良と比べると、たたずまいはかなり新しいのです。人工的な計画都市でありながら、せまい地域に異質のものが凝縮してバサラ状態である、しかも伝統の持続に高い価値をおく。このあたりが京都の底力かもしれません。
「なぜ、今、京都なのか」というよりも、京都はどの時代においても気になる場だと思います。なにしろそのたたずまいには誰しも伝統と最先端を感じずにはおれません。どの時代のどの地域の人が訪れても、そのように感じるはずです。そんな京都の特性は、もう言い尽くされていますが、やっぱり京都を歩くと「ううむ、勝てない…」と思ってしまいます。
また、ご存知のように、京都は、そのようなたたずまいと場の霊性を維持しようとする努力を常に行っています。最近も、高い看板撤去の条例が提出されましたよね。住んでいる人たちが、住んでいる場の特性をよく知っているからこそできる努力です。大阪も少しは見習っていただきたい(涙)。

ウチダからひとこと:
バッキー井上さんの名言に「京都は御所以外みんな下町」というのがあります。
京都の特質を言い当てて妙ですね。
京都は御所という中心があり、かつその中心には誰もいません。
無住の館を中心とする街。
城下町というのはどれもそういう構造になっています。
政治的欲望はある種の空虚を志向します。
天下を支配する欲望を持つことを古語では「中原に鹿を逐う」と言います。
帝位を鹿に喩えた古代人の洞察に驚かされます。
権力の座は本質的に「逃げ去るもの」であり、それを欲望する人は「屍骸」というかたちで、つまり「もうそれは存在しない」という条件でしか手に入れることができない。
門前町というのも中心は空虚ですね。
人々を惹きつける欲望の中心には寺院や神社があり、その中心にはある種の「イコン」(似像)だけがあって、いかなる地上的実体も存在しない。
京都は「城下町」と「門前町」の両方の特質を備えた日本唯一の都市です。
それゆえ京都は日本人の欲望をつよく喚起するのだと思います。

特別ゲストの江弘毅さんからもご回答を頂きました!

わたしは「だんじりエディター」ですが、これまで京都のガイド系本や
月刊誌での特集をどかどかどどどっと出してきました(売れるから今も
出していますが/笑)。こんなことを言うのは、大変おかしなことで矛
盾していることになるのですが、基本的に京都というまちは「一見お断
り」です。だから情報誌やガイドブックをを見ていくところではない。
「こら江、どないなっとんねん!」と怒らないでくださいね。
つまり京都のまちのあれやこれやは、データとかによって情報化できま
せん。
そこでは、「はい、1万円」と宣言して1万円渡して、「は
いそれでは、1万円分のハモと京野菜の炊いたんとお酒ですぅ」
とは出てこない。かわりに「いけず」つきの「お茶(ぶぶ)漬け」が出
てくるかもしれない。
「百円あったらマクドナルド」に行って百円出せば、「いらっしゃいま
せこんにちは(あのイントネーションで)」「チーズバーガー、ホット
アップルパイ、三角チョコパイ、ドリンク、マックシェイクとありまし
て、どれも百円です。あと170円でポテトはいかがですか?(そ
れにしても、なんで100円のチーズバーガーに170円のポテ
トを奨めんねん)」とはならない。グローバルスタンダードでたいへん
経済合理的な等価交換の世界ではないのです。
そこでの商品やサービスは、それについての情報を身にまとい、つまり
その買い方食べ方楽しみ方のマニュアルを読んで、そこにデータ化され
ている対価=お金さえ用意すれば、いつでもそれに応じて交換される。
そういう風になるとは限りません。
京都の人は、人間やものを一元的な物差しでは見ておりません。(背
が)高い、(お金が)多い、(喧嘩が)強い、(足が)早い、(規模
が)大きい…とかだけで物事を測らないのです。
実際、京都のまちに行ってびっくりするのは、河原町や烏丸あたりを歩
いてみてもハイテクな金属やガラスのビルよりも木造の町家の漬物屋さ
んや豆腐屋さんや箒屋さんとかの方が幅をきかせているように見える
し、祇園に行ってクラブやラウンジの入ったビルや大きなお茶屋さんや
料理屋さんの並びに一軒屋のタバコ屋さんや果物屋さんがあってそこの
方が目立っていたり、ビカビカに光った高層のシティホテルよりも土壁
二階建ての旅館の方が偉そうで威張っているように見えます。
ディズニーランドは世界中にどこでもつくることはできますし、今やた
くさんの国にもありますね。けれども京都の豆腐屋さんは京都の街場の
豆腐屋さんであって、デパ地下やスーパーの豆腐コーナーではあきませ
んね。
同じスーパードライを家で飲むのと、居酒屋やバーでもいいですがよそ
の店で飲む方がどうしておいしいのか(高いのに)。思わずそんなこと
を考えてしまうのが楽しいから、人は京都に行くのでしょう。
だから「なのにあなたは京都に行くの 京都の町はそれほどいいの こ
の私の愛よりも」(チェリッシュ)、「きっといいことおきるから 京
都あたりへ行きたいわ」(大阪の女/ザ・ピーナツ)で、「そうだ京都
行こう」(JR東海)なのです。
どうか「いけず」をかいくぐり、京都を楽しんでください。

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