: updated 9 April 1999
Simple man simple dream -14
飛ぶ教室

中央教育審議会が、英才には「飛び級」を許して17歳で大学に入れるようにしたらどうかという提言をしたので、先月そのことが少しだけ話題になった。

「少しだけ」しか話題にならなかったのは、大半の人がそれがご本人や豚児たちにはどうせ関係ないことだと分かっているからである。しかし、何となく厭な気分のする提言ではある。どうして「厭な気分」になるのかを明らかにしつつ、この問題を考えてみたい。

第15期中教審の答申は「ひとりひとりの能力に応じた教育」を主題にしており、「飛び級」はその目玉の一つである。学校を卒業しないまま上の学校に進学してしまうのが「飛び入学」(これは一部の大学院ではもう実施されているそうである。大学3年から修士課程に進むのである)。同じ学校の中で学年を飛ばすのが「飛び級」。

ある分野に卓越した才能をもった子供をどんどん上の学校に進めてあげれば独創的な学者が輩出するであろういうのが「飛び級」構想の基本にある考え方である。人に優れた才能のある個性的な子供は、ふつうの教育環境では「つぶされてしまう」が、少しだけ上の学校や学級にすすめば、その才能を開花できるというのである。

この議論は常識的に考えて間違っている。

前半はおおむね正しい。たしかに日本の学校教育は子供の個性をすりつぶす方向にはたいへん効果的に機能している。こんにちの教育の場を支配しているのが「出る釘は打つ」という原理であることは周知の通りである。

だが、それだからといって「上のクラス」に「飛び級」するのがそんなにいいことなのだろうか?

「飛び級」をしてクラスに入ってきた、年下のくせに妙に数学や物理のできる子供が、年上の「凡庸な」クラスメートたちから、どういう種類の歓迎を受けるか想像するのは難しくない。この「個性的」な英才児は、その存在そのものによって凡庸なクラスメートに屈辱感を与えるから、当然嫌われ、いじめられる。

天才が凡人から受ける低劣ないじめにどれほど傷つけられるかは、古今の文学作品に枚挙の暇がないほど書かれているから、そのへんははしょるとして(詳しく知りたい人は『トニオ・クレーゲル』を読んで下さい)、結果的に、この英才児は、自分をいじめた凡人どもを「見返す」ために、自分の興味のある分野に埋没して、その分野ではなかなかすぐれた業績を残したりはするのである。

たしかにひとりの子供をこういうふうに追い詰めて「マッド・サイエンティスト」もどきの学者に仕立て上げるというのは、国策的にはプラスかもしれない。(中教審の狙いも存外そのへんにあるのかも知れない。)しかし、本人はいい迷惑だ。

「だったら能力の高い子供ばかり集めて英才クラスをつくればいいじゃないか」と今思ったあなた。あなたはたぶん心の優しい人なのでしょうが、惜しむらくは子供の頃に「神童」とか「天才児」とか言われた経験がない人である。

私は「昔、英才」だったのでその辺の消息には通じているのであるが、「英才」というのは、多くの場合、たいへんに「他者指向のつよい」生き物である。「他者指向が強い」というのは、要するに「自分がなにものであるか」ということがよくわからず、主に自分が「何ものでないか」という消去法によって自己同一性を支えているタイプのいやな野郎のことである。だから「気が優しくて力持ち」で「竹を割ったような性格」で「明るく朗らかリーダータイプ」といような「英才」というのは存在しないのである。

基本的には「勝った」と思えばつけあがり、「負けた」と思えばいじけるとても困った子供たちなのである。だから「英才クラス」というのは、全員がお互いの能力査定だけに汲々とし、毎週「今週のおりこうさん」ランキングに一喜一憂するような悲しい悲しい世界なのである。

そういう環境で子供を育てることに私は反対である。 

なまじひとなみはずれた知的能力に恵まれた子供は、それだけでもけっこう辛いことが多いのである。だから適当に猫をかぶって、正体をばらさずに「凡人」のふりをして過ごすのがいちばんであると私は思う。それで日本の学術の進歩が少しくらい遅れたっていいじゃないか。

May 1997

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