: updated 9 April 1999
Simple man simple dream -17
脳死と臓器移植

エドガー・アラン・ポーのあまり知られていない短編に『ヴァルドマアル氏の病症の真相』という作品がある。読み終えたあと、かたづかない気持ちになる不思議な味の恐怖小説である。「世界で一番恐い話」だという人もいる。そのお話をご紹介したい。

催眠術師の「私」は「臨終の人間に催眠術をかけたらどうなるだろう」という疑問を抱いていた。劇症の肺結核に冒され余命いくばくもない友人のヴァルドマアル氏が奇特にも「私」の知的好奇心を満たすべく、臨終に際して氏に催眠術を施術することを許可してくれる。施術は成功し、瀕死の男は臨終の床で眠りにつき、眠ったまま息をひきとる。

ところがそれから数分ののち、ヴァルドマアル氏は「眠り」からさめてしまう。

「深い洞穴から聞こえてくるような」くぐもった声で彼は「さっきまで私は眠っていたが、いまは死んでいる」とうめく。催眠術の眠りのせいで、彼は死の瞬間を逸してしまったのである。

ヴァルドマアル氏はそれから7ヶ月死んでいながら、死んでいない宙吊り状態におかれる。「私」はついに彼にかけた催眠術を解くことを決意する。

術が解け始めると、再びあの地獄の底から響くような声がうめく。「早く、眠らせてくれ、でなければ、早く目を覚まさせてくれ。」そして術が解け切った瞬間、ヴァルドマアル氏の身体は「いまわしい腐敗物の、液体に近い塊」と化して崩れ去る。

生と死の中間状態、死んでいるのに生きている、あるいは生きているのに死んでいる状態というのはポーが好んで書いたホラー・シチュエーションである。『早すぎた埋葬』という短編の中でポーはこう書いている。

「まだ生きているうちに埋葬されてしまう―これこそは疑いもなく、これまで人間に降りかかった極度の苦痛のうちでも、最も恐ろしいものであるに違いない。」 生きながら棺桶に入れられた女性の恐怖を描いた『アッシャー家の崩壊』がポーの代表作であることは皆さんご案内の通りである。 

「生でもなければ死でもない」という「グレー・ゾーン」は私たちの恐怖の太古的な起源である。

石器時代の墓地を発掘すると、ぐるぐるに縛り上げたり、上から巨大な岩を乗せて身動きならないようにして埋葬してある死体が見つかる。一度死んだものが再び生者の世界に戻ってきて災いをなすことを古代人は非常に恐れたらしい。そう言えば、フランケンシュタインの怪物とドラキュラ伯爵もゾンビーも、いずれも墓場から蘇ったものたちである。

しかし、同じグレーゾーン経験のうち、「埋葬した死者が蘇る」と「生きながら埋葬される」のではどちらがより恐いかというと、これはやはりポーの言うとおり、圧倒的に後者の方が恐いのである。

死者が蘇ってきて、「脳味噌を食わせろ」とひとを追い回すのもたしかに恐い。恐いけれど、これとてゴジラやキングコングと同じで、必死になって逃げればなんとか助かるチャンスはありそうだ。

しかし、眼が醒めたら埋葬されていたという場合は逃げようがない。せいぜい棺桶を内側からがりがり引っかいたり、声を限りに叫んでみたりするばかりである。日本の場合だと火葬が主だから、オーヴン(というのであろうか、あれは)の鉄の扉ががちゃんと閉まった瞬間に眼が醒めるということになるが、これも考えるだけで気が滅入る。

さて、いやらしいことを延々と書いてきたが、これは別にそういうことを話したくてやっているのではない。「脳死」という問題にかかわる私たちの態度を、この「恐怖」とからめて考察しよう、というのである。

「臓器移植法案」が近い内に国会に上程されようとしている。どうやら「脳の不可逆的機能消失」をもって人の死とすることは受け入れざるを得ない趨勢のようである。

「脳死」と判定されると、そのあとは心臓が動いて、人工呼吸器による呼吸が行われ、皮膚はピンク色のままで、体温も暖かくても、その人はもう「死体」であることになる。「死」の基準が今より「手前」にシフトするわけである。これまでの心臓死を基準にすれば「生きている」はずの身体が「死体」として扱われるのである。

脳死支持者の多くは(法案の名称からも分かるように)これを「臓器移植」の需給関係・人命救助という文脈で議論しようとしている。脳死判定により「生きのいい」臓器が移植可能になれば、多くの人命が救われる、というのが推進派の主な論拠である。それだけ聞けばもっともな意見である。

しかし、これに対してきびしい反論がある。

本人の同意なしに臓器を提供することについての問題。生死の判定を全面的に医師に委ねることへの抵抗。臓器を切りとり、移植するという身体の道具的な扱い方そのものに対する心理的な反発。

両者の主張にはそれぞれの正当性があり、にわかにはいずれにも与しがたい。

果たして世論調査でも「脳死をどう考えるべきか、よくわからない」という解答が40%近い。私はこの反応は当然だと思う。私だってなにがいいのか分からない。

脳死についてどう考えるているか、まわりの人たちにあれこれ訊ねてみた。言うことがみんなてんででたらめで、とりとめがない。きっぱり脳死判定に賛成という人も、反対という人もいない。みんなそれぞれの懸念を口にはするが、さりとてそれを根拠に賛成・反対の旗幟が鮮明になるわけでもないらしい。

そこでもし、現行の「死」の判定が変更されて脳死判定が採用された場合にどういうことが起こり得るのかを思いつくかぎり想像してもらってみた。無責任な想像ではあるが、一つ二つは現実のものとなるやもしれぬ。

きわめて現実性の高い悪夢は、国際的「臓器」シンジケートの成立である。臓器移植の広がりからみて、当然これは予測される。

すでにフィリピンやインドでは臓器の売買が非合法的に、組織的に行われている。臓器の売却は極貧層にとっては、てっとり早い現金収入の道となりうるからだ。

臓器移植技術のおかげで「人間の身体」はいまや貴重な財源となった。現在、人間の死体からは心臓、肝臓、腎臓が摘出できる他、骨、神経、軟骨、角膜、中耳、皮膚、血液などほとんどすべてを採取することができる。

アメリカの組織バンク(身体組織を死体から採取処理し、斡旋する企業がすでにアメリカには存在する)の試算によると人間一人の身体価格は25万ドルに相当する。

「たいていの人は生きているうちよりも死んでからのほうがうんと高い値段がつく」のだそうである。

原価450ドルで「仕入れた」した心臓が5、500ドルで「売れる」というのだから、職業的な犯罪組織がこの商売を見逃すはずがない。

健全な臓器を求めての「人間狩り」が始まるだかもしれない。かつての「奴隷狩り」と同じロジックである。治安の悪い地域、人権意識の低い地域、行政当局が住民の正確な人口や動態を把握していない地域は「人間狩り」のハンティング・ワールドとなる。捕まえられた人間たちは沖に待つ奴隷船に乗せられ、「臓器倉庫」のようなところに送り込まれて、そこで「オーダー」を待つのである。そして出前のピザと同じく、迅速にデリヴァリーされるわけである。

これは全くの空想でもないらしく、医療ミステリーの専門家であるロビン・クックは『ヴァイタル・サインズ』で「胎児シンジケート」を主題にした同じような恐い話を書いている。

もう一つの空想は人工呼吸器をつけられている脳死者の死体、つまり「生死体」(バイオモート)は「ひと」なのか「もの」なのかという問題にかかわってくる。

脳死判定推進の理由の一つは、現行の死の基準では臓器移植が「傷害罪」に当たるということであった。脳死判定になると、心臓が動いていても、呼吸していても、それは「死体」というわけだから切っても刻んで罪にはならない。

とすると、たとえば臨終の床で夫の脳死が宣告されたあと、突然、かたわらで看取った妻が「積年の怨み思い知れ!」と叫びつつ、夫に馬乗りになって首を締め、それで心臓が止まっても、罪にならないことになる。(包丁で切り刻んだりすると死体損壊罪になるかもしれないけれど)

あるいは脳死者を運ぶ途中で、看護婦がストレッチャーをひっくり返してしまい、「生死体」の呼吸が止まってしまい、(つまり「死体」が「死んで」しまい)臓器移植に使えなくなってしまう、などということも可能性としてはありそうである。この場合は「業務上過失致死」に当たるのか、それともただお茶碗を割ったのと同じ「器物損壊」に当たるのか、どっちであろう。

しかし、なんと言っても脳死について一番こわいのは「まだ死んでいないのに、死んだことにされて臓器を取られてしまう」という想像である。これはポーがこだわり続けた「生きながら埋葬される恐怖」に匹敵する。

脳死には昏睡、呼吸、瞳孔反応、脳波といろいろな判定条件があるけれども、どんな精密な機械でも故障することはあるし、どんな名医にも誤診はある。なんかの間違いで生きているのに「脳死です」という宣告が下されてしまうことだって、絶対にないとは言えない。(誰かがうっかり脳波計につながるコードに足を引っかけて接続を切ってしまうとかいうことだって考えられなくはない。)

そして脳死判定が下り、臓器移植のために外科医がゴリゴリと心臓や腎臓を摘出している最中に「眼を覚ましてしまう」のである。

これは痛いとか苦しいとかいうより、せつない。

脳死臨調で「脳死はヒトの死ではない」と主張し続けた梅原猛がこんな話を紹介している。

アメリカで暴走族の若者の心臓を提供された50歳くらいの女性がいた。誰の臓器を移植されたかということは極秘なので、むろん彼女もドナーが誰だか知らなかったのだが、突然バイクに乗りたくて仕方がなくなり、ついに我慢できずに手近のバイクにまたがりばりばり走り回ってしまったというのである。(まあ、こういうのは「都市伝説」のたぐいで、あまり信憑性はないけれども、そのような都市伝説を支えるメンタリティが存在することは確かだ。)

脳死と臓器移植が連想させる恐怖譚もジョークもいずれもかなりブラックである。これを素人のゆえなき妄想とかたづけることはたやすい。けれども人類学的な立場から言えば、「恐怖」とは「触れてはならぬもの」に対して人間が備えている本能的なセンサーである。「なんだかわからないけど恐い」という感覚のおかげで人間はしばしば危険を未然に回避している。

「恐い」ものは敬して遠ざけよと経験は私たちに教えている。

(しばらく経ってから、もう一度同じテーマを論じた。)

すでに臓器移植と脳死の問題については一度論じた。そのときに、私は人間の臓器を取り外し可能のパーツとみなすような身体観に対する心理的抵抗について述べた。

法案が遠からず成立する以上、いまさらがたがた言っても始まらないが、もし法案成立をきっかけにして、脳死者からの臓器移植が今後急速に日常化するとなると、そのときに生じるであろう「文化的な」問題について、いまのうちから心の準備をしておくことは無駄ではないだろう。

臓器移植問題でほとんど論じられなかったことの一つに、欧米社会と日本社会における「死体」観の違いがある。

一つ例を挙げる。真珠湾には日本軍の空襲によって沈没した戦艦アリゾナが沈んでおり、その上に記念の博物館が建っている。あまり知られていないことだが、アリゾナの船内にはそのときに沈没した戦死者たちの遺体がそのまま残されている。遺体回収が危険なので、そのままにしてあるのである。遺族は戦死者が顕彰されていることに満足しており、遺体のことは誰も気にしていない。

これは日本人の感覚では理解しにくいことである。私たちは遺髪や遺品にさえ、故人の魂魄が宿っていると信じて、あだやおそろかにはしない。まして遺体のありかが分かっていながら、放置するなどということは想像の埒外にある。

航空機事故のあと、現場に急行して遺品を血眼になって探すのは日本人だけであるという事実もあまり知られていない。

ギリシャ哲学、キリスト教以来の霊肉二元論の伝統のうちにある欧米人にとって、生命=霊=精神活動を失った遺骸は、ただの「もの」である。

デカルトはこう書いている。

「もし私が考えることをすっかりやめてしまうならば、おそらくその瞬間に私は存在することをまったくやめてしまうことになるであろう。」

精神を失って、ものを考えることを止めた肉体は「機械」であり、「存在」しないも同様である。これが欧米人の基本的な身体観である。

だからこそ、彼らの社会では、遺体の内臓を抜いたり、切り刻んだり、縫い合わせたり、彩色したりする葬儀屋商売がめでたく繁昌するのである。

ジョージ・A・ロメロの映画でおなじみの墓から蘇ったゾンビーたちが人間を襲うときに「脳味噌を喰わせろ」といって、頭に食らいつくのはなぜであるか考えたことがおありだろうか?

あれは葬儀屋が死体処理のときに遺体から内臓ばかりか脳まで抜いてしまうからなのである。

抜き取った脳をどうするのかは知らないけれど、(まさかそのまま「生ゴミ」に出したりはしないだろうけれど)、あまり丁重な扱いを受けているとは思えない。

臓器移植を当然のように受け容れている社会というのは、人間の身体をそういうふうに扱う社会なのである。

私はそれが悪いと言っているのではない。欧米と日本では、死体についての文化的な風土が違う、と言っているだけである。

臓器移植は欧米では日常的なことである、だから、日本もそれに倣ってどんどん臓器移植をやるべきだというロジックは一見平明であるが、欧米と日本の身体観の文化的な差異についてあまりに想像力を欠いているように私には思われる。

ギリシャ的・キリスト教的な霊肉二元論に涵養された欧米社会の身体観にしたがうなら、臓器は互換可能な「パーツ」であるにすぎない。悪い臓器を摘抉して、よい臓器をどこかから切り取ってきて接ぎ合わせることは、壊れた自転車の部品を新品と交換するのと原理的には変わらない。

しかし、私たちの文化は、伝統的には、人間の身体や臓器をそのようなものとしては観念してこなかった。

私たちは使い込んだ道具にさえ「手沢」がつくといって、そこに使用者の魂魄の名残りを認め、長年使われた鍋や釜さえいつか「人格」を持つに至り、深夜「百鬼夜行」とて都大路を練り歩くという幻想を抱くような特殊な民族文化のうちにある。

ましてや誰かが「使い込んだ」臓器に魂魄の宿っていないことがあろうか、というのが日本人の平均的な心理であろうと私は思う。

臓器移植に取材したSFを二作品思い出してもらいたい。

一つは、筒井康隆の(だいぶ昔の作品だけれど)『俺の血は他人の血』(最近、豊川悦司の主演で映画になった)。いま一つは最近の作品で(これも三上博史の主演で映画になった)瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』である。いずれも、臓器移植が日本的な文化風土において引き起こすであろう精神的な外傷について語っている。

両作品に共通する話型は、移植された臓器(筒井の場合は血液)とともに、ドナー(臓器提供者)の「人格」がレシピアント(臓器受容者)の身体に入り込んでくるというものである。筒井の方は、マフィアの親分の血を貰った男が暴力的な人格異変を起こすという話。瀬名の方は、腎臓移植を受けた少女のところに、死んだはずの「本体」が自分の一部を求めてやって来るというホラー(だったような気がする。違ったかもしれない。)

ともあれ、私が言いたいのは、この両作品に共通する、生命を失ったはずの身体の断片にさえ持ち主の「人格」が宿るという「心身不二」的事態は、私たちの文化的風土においてはあまり違和感のある設定ではない、ということである。(逆に言えば、ゾンビー映画で育った欧米のSF作家には構想しにくいアイディアだということでもある。)

今後、臓器移植を経験する日本人は、自分の身体をこのような文化的コンテクストとの「ねじれ」の中で分節しつつ生きなければならない。

身体は外科的処置でどうにかなるだろう。だが、日本人の精神には、この身体的変容を難なく切り抜けるような心理的準備が整っていないと私は考えている。

他者の臓器を接続して生きる人間の心理的葛藤とはいかなるものか、またどのような心理的ケアーによればその葛藤を解消することができるのか、果たして医師たちはそのような問いを真剣に立てているのだろうか。

私は懐疑的である。

わが国と欧米の「死体」観の違和を骨身に沁みて味わいたい人は、ピーター・グリーナウェイの『ベイビー・オブ・マコン』を見るとよいと思う。この映画はヨーロッパの教会において崇拝の対象である聖遺物(聖人の死体の一部のことである)なるものがどのようにして採取されるのかをたいへんリアルに描いている。(たいへんリアルすぎるせいで、映画館で私のうしろで映画をみていた若いカップルの女の子は席を立ちながら「当分、お肉たべられないわ」とつぶやいていた。)

この映画はうちの近所のヴィデオ屋では「ホラー」のコーナーに分類してある。グリーナウェイが見たらかんかんになって怒るだろうけど、私はヴィデオ屋のお兄ちゃんの見識を支持する。彼我の文化を隔てる淵はかくのごとく暗く、深い。


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