: updated 23 Oct 1999
Simple man simple dream -30
(番外編)

平川克美君は内田の小学校以来の親友で、大学卒業後、いっしょにアーバントランスレーションという会社を創設した。(彼が社長で、ぼく社員)

平川君の卓越したビジネスセンスと先見の明のおかげで会社はどんどんビッグになった。
ぼくは大学院の博士課程まで進んだところで、ビジネスを続けるか研究者の道を選ぶか迷ったあげくに、愉快なビジネス弥次喜多道中を切り上げて、よりストレスフルで孤独な研究者の道を選んだ。理由はいまでもよく分からないけれど、平川君とは違う世界で同じ夢を追うほうが、ふたりにとってもっと愉快なことが起こりそうな気がしたからかも知れない。その直観はたぶん間違っていなかったと思う。

ぼくが合気道に夢中になりはじめたころに、(示し合わせたわけでもないのに)平川君は松濤館空手の門をたたき、いまでは松濤館空手の最高段位に達し、ヴェンチャービジネスの雄であると同時に斯界屈指の武術指導者になっている。

ときどき彼が書くものを読ませてもらうけれど、その文体にも思考にも、ぼくはとても他人とは思えないほど近しいものを感じる。ふたりとも激しい性格であるにもかかわらず、ぼくたちは38年間一度も口げんかさえしたことがない、よほど気質が合うのだろう。

というわけで、今日は、平川君の最新エッセイ(アーバンの社員教育用の教材(!)なんですと)を転載させてもらうことにした。 Simple man simple dreamのエグゼクティヴ・ヴァージョンです。では、ごゆっく り。

ビジネスのフェテシズム

車、保険、家電など、街には商品があふれている。ひとは、便利な輸送手段をもとめて車を買うのだろうか。死後の金が欲しくて保険に入るのだろうか。快適な生活をもとめて、洗濯機やクーラーを買うのだろうか。言いかえるなら、ニーズ(必要)があるからそれを求めるのか。もちろん、そうに決まっている。決まっていたと言ったほうが良いかもしれない。

しかし現代日本のような高度消費社会、高度資本主義のマーケットにおいては、事情は倒立する。モノがいつもニーズを追い越して市場にやってくる。携帯電話は、高価格なモバイル緊急連絡ツールとして市場に出てきたが、いまやガキの24時間コミュニティツールである。四六時中お喋りを垂れ流し続けることをコミュニケーションとは言わない。

2台目のテレビ、より小さい携帯電話、ビジネス手帳を買う人の家には、木目の家具調テレビがあり、黒電話があり、信用金庫からもらった手帳が3冊ほどすでにそろっていた。テレビも電話も、手帳もすでにあったのだが、あたらしい商品群は明らかに別の意味を付与されて市場に出回ってくる。

意味を付与したのは誰か。

オレたちは、2台目のテレビでお茶の間のコミュニケーションを破壊され、携帯電話で自由な時間を失い、システム手帳に半年先のスケジュールまで書きこんで行き当たりばったりの僥倖という愉楽を喪失している。

うーむ。(それでもこれらを買っちまったオレはバカか。)

サプライヤーは、消費者ニーズがあっても、儲からないものは作らない。消費者は、どんなに価値あるものでもモチベーションを刺激されないものには手をださない。

わたしたちはモノを売ったり買ったりしているのだが、本当のところはモノの持つ「意味」を売買している。

モノの持つ「意味」に荷担しているのは、メーカであり、オレたち自身だ。

何が言いたいのかというと、モノだけを見ていると全体の関係(ビジネスや社会)が見えなくなるということだ。

足フェチというのがある。尻フェチ、指フェチ。ストッキングフェチ。まあ、だいたいフェテシズムはセクシャルな意味で使われるターム(物品性愛〕だが、わたしは、この意味をモノに対する偏愛であると思っていた。

確かに、モノに対する偏愛に違いは無いが、それなら誰でも持っている嗜好であり、とりたてて論ずることもない。たぶんフェテシズムとは、部分に対する偏愛なのだ。

足フェチには、顔も全体のプロポーションも必要が無い。ただ、部分だけが重要なのだ。なんらかの理由があって、かれは全体的な関係を拒絶するに至ったのである。

部分に対する偏愛とは、全体的な関係からの逃避であり、拒否である。

モノに向かって呟くひとは、ダイアローグ(対話)をしているようだが、本当は自分と対話しているに過ぎない。しゃべりつづけるトークもこれと同じで、モノローグを垂れ流しているに過ぎない。

ビジネスにおいてモノにスティックすることは、足フェチが全体のプロポーションを見ないようにしているのと同じだ。モノ(商品)に憑かれると、ビジネスを構成している全体の要件が見えなくなる。

大切なのは相手〔他者〕に対する想像力である。

セールスの要諦は、モノの呪縛から自由になることだ。

どういうことかというと、モノではなくサービスを売れということである。モノにスティックすると、全体の関係が見えなくなる。

「仕事はメタ言語である。」
(ちょっと長い)

URBAN創立以来、仕事をどのように考えたらよいのかという命題に答えたいと思って きた。

シンプルに見ればビジネスは「お金儲け」だが、その「お金儲け」だけのために人生 の 大半を奪われるのはたまらんという気持ちもある。

多くの、ビジネス書や自己啓発本がつまらないのは、結局のところその内容は「お金儲けの方法」論と「お金儲けに向けての自己制御法」に終始することになっているからだ。
金融工学とかホロニック組織論だとか、あるいは宗教的な自己啓発方法論だとか意匠は時代に応じて変化してゆくが、「お金儲けはむずかしい、おもしろい、儲けた奴はえらい、かしこい」というだけの内容のレトリカルなバリエーションなのだ。

何が言いたいのかというと、これらの本の根底にある「価値観」は金につきるということだ。
いったい、いつからこんな価値観がはびこるようになってしまったのか?
「武士は食わねど高楊枝」の心意気、やせ我慢はどこへいってしまったのか?

誤解しないでもらいたいが、お金儲けが悪いと言っているのではありません。結構なことです。
でも「URBANの誇り高きサラリーマン」は、それだけじゃ満足できない。

じゃあ「生きがい」ってやつがあるじゃないか。

なるほどね。「それじゃ、エクセル使って表作るのが、オレの生きがいなのか」「コンピュータ屋に販売戦略プランのプレゼンするのが生きがいなのか」「スノッブな海外志向お嬢さんにパリのガイドブックつくったり、外人好きのナンパ野郎のための会話本つくったりするのが生きがいなのか」

生きがい論は、どうも分が悪い。

たぶんそれは、リクルートかどこかが就職情報誌の拡販のためにこしらえた「嘘」だ からです。

仕事、ビジネスを見るときの、ものの見方を変える必要があるのだと思う。

上記の思考は、自分と仕事、自分とビジネスというフレームワークの中でしかものを見ていない。だから、巧妙に罠を仕掛けて、少しでも大きな利益を収奪するという、多くの会社がやってきてすこしは成功したがほとんど失敗したエゴイクティックなマーケティング戦略が未だに幅を利かせている。

何か変である。

ここには「他者」がいない。

ビジネスに対しては、目の位置をどこに置くかでその見え方はまるで、違ったものに なる。
パンアウトして見れば、ビジネス=マクロ経済である。クローズアップなら、ぐじゃぐじゃしたアドレッセンス的な(青臭い)人生の目的となる。
程よいスタンスというものが、実はビジネスの方法を決定する。

大分昔のはなしになるが、テレビドラマで、友禅の職人が、師匠の娘を嫁にもらおうと、あいさつにいったところ、この師匠は「言葉はいらねぇ。お前の仕事を見せろ」と言うシーンがあり、ドラマの題名も俳優の顔も忘れてしまったが、台詞だけ鮮明に覚えている。

たわいのない話しといえば、それまでだが、私が考えるビジネスのスタンスは、この会話に象徴的に表現されている。
ビジネスとは、仕事を媒介にした、人と人の関係なのだ。

この場合、仕事とは言葉のようなものだ。
もちろん、言葉のように自由に自分を表現できるわけではない。しかし、仕事は必ず相手があって成立する。仕事をとおして、相手とコミュニケートするわけだ。

一対一のディールは、真剣な対話である。ビジネスというルールの中で、相手の心理とこちらの心理がぶつかり合う。リテール商品の開発は、不特定多数の読者に送るメッセージのようなものだ。

いずれにせよ、いいかげんな仕事をしていれば、相手はそれを必ず見ぬく。なまへん じや、嘘や、こびへつらいや、傲岸不遜は、かならす相手に伝わってしまうのである。

仕事は、お金儲けの手段ではない。仕事の向こう側にいる人間との不断のコミュニケーションなのである。
ストレートなコミュニケーションではない。「1回半ひねり」したコミュニケーションなのだ。 この、「1回半ひねり」に関しては、またの機会に。

1回半ひねり

この商売をやっていると、さかんにインターフェースという言葉に出会う。ヒューマンインターフェースなんてこともいう。へんてこりんな言葉だが自分でも良く使う。
コンピュータのインターフェースといえば、画面構成やらこそにある入力ボタンやらデザインといった要するに、ユーザがマシンに対するときの、操作部のことを指している。ラジオのインターフェースは、ボリュームノブや、チューニングノブだし、コピー機ならパネル部のことだ。

インターフェースは直訳すれば「境界面」ということで、コンピュータの場合は人間語(自然言語)の世界と機械語の世界の境界面ということになる。

コンピュータに向かって、ゲームをしているときもっぱらインターフェースに向かってしゃべる(入力する)と、コンピュータは画面に向かって答を出力してくる。
ここに生じる擬似的なコミュニケーションにゲーマーは快感を得る。

おっと、たぶん ちがうなこれは。

実際のコミュニケーションは、ゲームで何点とったかで争っているとなりのゲーマ仲間との間での沈黙の中にこそあるのだろう。優越、敗北感、嫉妬。
ゲームで負けると、あたかも人格において敗北したかのように感じてしまうものだ。
マージャンにはまったものなら、この感じは良くわかっていただけると思う。ゲームでの優劣は、人格の優劣のメタファーとなる。そうなったとき、人はゲーマーになるのだろう。孤島にゲームをもっていっても、糞の役にたたないだろうな。カール・マルクスも「人間は意識する類的な存在である」といっていた。

機械とのコミュニケーションは、人間同士のコミュニケーションとは当然ながら異なっている。境界面では、コミュニケーションツールとしての言葉は、人間語から機械語へ、機械語から人間語へと一回ひねって伝えられるというわけだ。

以前、ビジネスとは一回半ひねりのコミュニケーションと書いた。この構造はすこし複雑である。

商品を媒介にしてわたしたちはお客さんと向き合う。この場合、お客さんは赤の他人であり、お客が大会社の社長さんだろうが、八百屋のおっさんだろうが、キャバレーの女給さんだろうが関係無く「お客さん」という役割に過ぎない。いわばコンピュータインターフェースのコマンドボタンのようなものだ。

しかも、これは「神」としての呪術的役割をになっている。だから、お客が「馬鹿やろう!こんなもん使えるか!」とお怒りになったとき、「るせーこのやろう」といって殴り返してはいけない。前に、これをやっちまった社員がいたなぁ。コンピュータがうまく反応しないので、蹴っ飛ばしているのと大差ない所業だねこれは。

実は怒っているのは明石社長でも、八百八さんでも、昔の名前で出ているあけみさんでもない。「お客さん」というビジネス上の役割としての人格がお怒りになっているのである。いや、そういうことにしましょうと決めたのだ。(別に商法に記載されているわけじゃないが。)お客さんは「神」なのだから、神との対話は理解しあうかどうかではなく、信ずるか否かという次元の問題なのです。

ビジネスの場合は信ずるふりをするわけですね。

ネクタイとスーツは法衣や空手着などとおなじ神聖な衣装のメタファー(比喩)なのである。
T-シャツをユニフォームにしたアップルコンピュータは、このメタファーを逆手にとって、俗衣で顧客に向き合うことにより、「神」と「人間」の隔たりを取っ払おうという戦略であった。

と、ここまでは通常の「たてまえ論」である。一回ひねりだ。人間語と神の言葉の世界である。

お客と「わたし」の関係は、この「たてまえ」という概念上のインターフェースを境界として向き合っている。境界の向こう側に良く見えない「本音」がある。こちらがわにも相手に見せてはいない「本音」がある。この関係をもう半歩ひねってみれば、商品や、トークを媒介にしてお互いの本音が沈黙のコミュニケートをしている光景が見えるはずである。

売る人と買う人という擬似的な人間関係を、それがあくまでも擬似的な関係であると しりつつそれを演じる。

この演じ方の中にお互いの「生身」を仮託し、信頼とか誠実といった「本音」を見せ合う。

そんなとき、「神」であるお客はどんな表情をするのだろうか。わたしは経験的に知っているのだが、だぶん「にやり」とするのである。

「にやり」の意味は、「お主、なかなかやるな」である。

ビジネス上のコミュニケーションは、「たてまえ」というインターフェース上にユニ フォーム、敬語、ビジネスツールといったメタファーを使って営まれるゲームだ。参加資格は、ゲームのルールを守れること、ルールを理解できること、大人であること。 これは、案外複雑で高度なヘビーなゲームなのである。
大人はつらいのである。

*はい、平川君ありがとうございました。いずれビジネスの現場に出て行く学生諸君、あるいはすでに現場で悪戦苦闘している卒業生諸君、なかなか含蓄のあるお話だったでしょ。またいずれ続きを書いてもらいましょう。


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