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2005年10月 アーカイブ

2005年10月05日

質問1:わたしは浄土真宗ではありませんが…

Q:わたしは浄土真宗ではありませんが、それでも読んでおもしろいですか?
                      (F.Uさん)

A:故・桂枝雀師匠もよくおっしゃってましたが、面白いか面白くないかを送り手が決めることはできません。「頼むから面白いと思って読んでね」という念波を込めつつ書いてはおりますが、手元を離れたとたん好不評の判断は受け手サイドにゆだねられてしまうのです。ですから、浄土真宗じゃないF.Uさんが読んで面白いかどうかは、F.Uさんご自身しか判断できないのであります。
 でもこの本は初めから浄土真宗と無関係な読者をも想定しながら話が進行しています。ですから「宗教や仏教に興味はあるが、教団や教義には興味はない」という方も楽しんでいただけるよう腐心しております。そもそも内田樹先生は浄土真宗どころか、仏教にも与することなくご自分の宗教性を語られていますから。これを読むだけでも、元はとれます、間違いなく。

質問2:お経って本当に功徳があるの?お坊さんは意味が分かって読んでるの?

Q:お経って本当に功徳があるの?お坊さんは意味が分かって読んでるの?
                    (大阪府在住Kさん)

A:はいはい、ありますよ、功徳。それは、じゃーん、「お経を読めたというその行為自体が功徳」なのです。これは決してずるい逃げ口上ではありません。日ごろ過剰な欲求に振り回されている私が心静かに読経し、仏様のお徳を讃えることができた。これが功徳でなくてなんでありましょうや。
 さて、お坊さんは意味が分かってお経を読んでいるのか、というご質問ですが…。お坊さんは仏教思想やご自分の宗派に関する教義などを一通り勉強しますので、おそらくみなさんそこそこは分かっていると思われます(あくまで想像)。ただ、精密な解釈となると、専門に勉強している学僧さんでないと分からないでしょうね。
また、お経は単に仏教の思想を書いたものというだけではなく、仏教儀礼の重要な要素ですので、ただ意味が分かれば良いというものでもないと私は思います。お経に抑揚をつけたり、旋律に乗せて読むことそのものも大切な宗教性です。学生の頃にスイスで世界の宗教者たちが集まる会議を見学したことがあるのですが、そこで日本から来た浄土宗のお坊さんたちが大勢で『往生礼讃(おうじょうらいさん)』を勤行されたのです。その場にいた世界各国さまざまな宗教者たちがみんな、そのあまりに美しい声明に滂沱の涙を流すのを見ました。言葉や意味を超えて宗教性が揺さぶられることがあるんだな、って実感しました、はい。

質問3:お坊さんはなぜ頭をそるのですか?

Q:お坊さんはなぜ頭をそるのですか?
                    (レイコさん)

A:出家者はいつから剃髪していたんでしょうか。お釈迦様は、剃髪じゃなくて、数センチ髪を残しておられます。クセ毛だったんでしょうね、くるくるに髪が渦巻いていたと言われています。お経によれば、お釈迦様の弟子たちは剃髪しています。
当時のインドはお釈迦様以外にもいろんな思想家や宗教者が活躍していましたが、その人たちは髪を切らずに伸ばす傾向にあったようです。今でも、スィク教やラスタファリズムのように、髪を生涯切らない宗教は結構あります。
お釈迦様はものすごく衛生観念が発達した人だったので、剃髪を勧めるとともに、それがグループの印となったのでしょう。また、髪は生命力の象徴ですから、これを剃り落とすことは、世俗からの決別も意味していたと思います。
かつてカトリックの修道士さんたちも剃髪しました(今でも河童のお皿みたいな形に剃髪する人たちがいるでしょ)が、これも俗世間から離れ神にその身を捧げる証しです。
ちなみに浄土真宗の僧侶は出家受戒者ではありませんので、毛を伸ばしてもいいんです。

質問4:京極夏彦さんの『鉄鼠(てっそ)の檻』に、坐禅と瞑想は…

Q:京極夏彦さんの『鉄鼠(てっそ)の檻』に、坐禅と瞑想は違うと書かれていましたが、私には違いがよく分かりません。この二つについて説明して下さい。
                    (大学生Dさん)

A:京極夏彦さんは私も好きでよく読みます。『鉄鼠の檻』は禅をテーマにした連続殺人事件でしたね。読むと日本の禅仏教についてけっこう詳しくなります。
さて「瞑想」は仏教のみならず、さまざまな宗教において実践される行為です。また「瞑想」にはさまざまな手法があります。動きやポーズのバリエーションも数多いですし(歩き続けたり、鳥のマネをしたり、死体のように横たわる等々)、一点を凝視したり(密教で実践する阿字観などもそうですね)、ある言葉を唱え続ける瞑想もあります。また、イマジネーションを喚起する手順も多種多様です。中にはドラッグを使って瞑想する宗教さえあります。
これに対して坐禅は、坐って実践する禅那(ディヤーナ)の一種です。ディヤーナは静慮や定とも訳されるように、姿勢と呼吸を整え心を定めて静寂の中で瞑想します。つまり坐禅は瞑想のある一手法だということです。
 また禅は中国ですごく発達し、ある意味単なる瞑想の手法ではなく、ひとつの宗教として完成している面があります。ですから、禅は瞑想という領域で捉えきることはできない大いなる体系という言い方もできます。生活すべてが禅である、とさえ表現されます。
 いずれにしても、坐禅=瞑想とは言えない、ということになるでしょうか。

質問5:神と仏は同じなんでしょうか、違うんでしょうか。

Q:神と仏は同じなんでしょうか、違うんでしょうか。教えてください。
                    (あとむさん・Y川氏)

A:「神」も「仏」も多義的ですからねぇ…。特に「神」を定義することは簡単ではありません。
 まあ、一番わかりやすいのは「仏」と、ユダヤ教・キリスト教・イスラームで語る「神」。これはまったく別物です。仏教で言う「仏」とは仏陀(ブッダ=目覚めた人)のことですから、「悟りを開いた人間」のことを指します。ユダヤ・キリスト教・イスラームの神は万物の創造主であり、唯一無二で絶対なる存在です。人間が神と成ることはありえません。このあたりは、「未収録記事」にも載っています。
 しかし、このような絶対なる唯一神という概念は教義や哲学によって練り上げられて完成しているという側面があります。つまり実際に大衆の信仰現場では、たとえ一神教と呼ばれる宗教においてさえ「神」はもっと信仰対象全般を指すことも多いのです。
また「仏」にしても、大乗仏教で語られる仏さま方(大日如来や阿弥陀仏など)は、ある意味教えをシンボライズした超越的存在です。あるいは、ヒンドゥー教なら仏陀も神の化身となっています。
私たちを含めた多くの日本人が「お願い、神さま仏さま」と言っているのも、祈りや願かけなどの宗教的行為の対象となるすべてのものを含んでいます。このレベルでは神と仏を区別することはあまり意味をもたないことになってしまうかもしれません。
ねっ、簡単に説明しにくいでしょ。
ついでに言いますと、日本では、神道や土俗のカミも、仏教の天部も、キリスト教のGodも、みんな「神」と呼んでいるのでよけいややこしいのかもしれません。かつて日本ではキリスト教のGodは天主などと訳していました。神という言葉を使いだしたのは結構新しくて、1950年代後半になってからです。やっぱり、「神さま」って言うより、「主よ」なんていう表現のほうが私はぐっとくるけどなぁ。

質問6:釈先生は、なぜ浄土真宗を信仰しているのですか?

Q:釈先生は、なぜ浄土真宗を信仰しているのですか?
                    (T口さん)

A:ううむ、身も蓋もなく言ってしまうと、浄土真宗の寺院に生まれたからです。もし日蓮宗の寺に生まれていたら日蓮宗の僧侶になっていたかもしれませんし、牧師さんの息子に生まれていたらプロテスタントのクリスチャンになっていたかも(ほんとに身も蓋もない…)。「なんだ、そんないい加減なものなのか」とお感じになるかもしれません。宗教とはもっと自分自身の存在をかけて真実の道を選びとるものだ、とお考えの方もおられるでしょう。ごもっともです。志が低くて申し訳ないです。
 でも実際には、あらゆる宗教を学び体験した上で自分の納得できたものを選ぶ、ということは不可能です。なにしろどの宗教・宗派の道をたどっても、一生かかりますから。私は、自分にご縁のあった宗教・宗派を「良いご縁」と喜んで、そのご縁をたぐって道を歩めばよいのではないかと思っています。だから私自身は浄土真宗の道を歩こうと決めています。そもそもいろんな宗教や宗派を理解するにも、自分自身のきちんとした軸なしでは困難なんですよね(他宗教や他宗派との対話についてはまた別の機会に…)。
また、いくら強いご縁があったとしても、まったく自分が納得できないものであったなら、やはり離れたことでしょう。いまだに浄土真宗とのご縁を喜べていることは幸せなことかもしれません。なにしろ私の場合は、そもそもが宗教性に乏しいヤツですから(これまたお恥ずかしい…)。たまたまお寺に生まれたので、宗教についていろいろ考えるようになったんですが、もしそうじゃなかったら宗教をバカにするようなイヤなタイプですね、きっと。だからこそ仏様は私をお寺に生まれさせたんじゃないかな、と思っています。

質問7:南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか…

Q:南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか南無大聖不動明王とかってどういう意味?
                    (大学生Dさん )

A:本書(『インターネット持仏堂』)にも書きましたが、「南無」はサンスクリット語の「ナマス(namas)」、パーリ語の「ナモ(namo)・ナマ(nama)」を音訳したものです。礼拝する・恭しくおし頂く・おまかせするといった意味です。それで訳語は「帰命」や「帰依」などが使われます。つまり、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」とは、「阿弥陀仏(=限りない光と生命)におまかせいたします」や「妙法蓮華経(=法華経)に帰依します」といった意味です。つまり定型の信仰告白ですね。「ナモ〜」というのはアジア各地で見られる形態です。ヒンドゥー教でも、「ナモ・ガネーシャ(商売の神様)」や「ナモ・ビシュヌ(愛の神・宇宙を維持する神)」などと称えます。
 ところで、今では念仏といえば「南無阿弥陀仏」と称えることを指すようになりましたが、もともと「仏を念ずる」というイマジネーションやメディテーションの行でした。それを「口で称えることが第一義である」と転換したのは法然上人です。

 さて、真宗では「自分の称える念仏などない、南無阿弥陀仏は仏の呼び声である」、という宗教体験の世界を語ります。真宗のとてもユニークなところです。

質問8:目の前からいなくなって初めて想いに気づいたとき…

Q:目の前からいなくなって初めて想いに気づいたときは、どうすればいいですか?
                    (クラマさん)

A: む、これは恋愛関係の質問ですね。こっち方面も、私、得意ですぜ。

 「どうすればよいか」という具体案をお求めです。それでは「その気持ちを塩漬け」することをお勧めします。恋愛というのは、「自己愛」と「錯覚」のコラボレーションです。ですから、順調ならばこれほど自分という存在を肯定してくれるものはありません。このご質問の場合、「目の前からいなくなる」という欠如状況が加算されることによって、クラマさんの感情が肥大したわけです。そこで「一度こちらから連絡などをとってみる」という選択肢もあるのですが、まずは肥大した感情を「塩漬け」にして熟成させてみるのです。熟成してなおご縁を感じたら(このあたりは、クラマさんの恋愛センスが必要ですが)、そこで初めて連絡をとって会ってみる。そんなところでいかがでしょうか?

質問9:悪人正機(悪人正因)の基礎知識を教えてください。

Q:悪人正機(悪人正因)の基礎知識を教えてください。
                    (チカさん)

A:おお、わざわざ「悪人正因」を括弧に入れているところを見ると、『インターネット持仏堂』を読んでくださいましたね。まいどありがとうございます。

「悪人こそが救われる」というのは浄土真宗の専売特許ではありません。たとえば敬虔なクリスチャンに悪人正機の話をすると、すんなり共感してくれます。真宗もキリスト教も弱者の宗教性を大切にしますからね。ご存知のようにイエスは「貧しいもの・弱い者・苦しんでいる者こそ幸いである。なぜならその人こそ神の国に近いのだ」というようなことを語っています。これらはよく宗教的逆説性と表現されます。信仰が深くなればなるほど、自らの罪意識が深くなるからです。

さて浄土仏教では、「善人(=強者)は自分の力でできると思っているので、傲慢のワナに落ちているのだ」と考えます。この「傲慢さ」によって、仏の慈悲からより遠くに身をおいてしまうのです。それに対して悪人の自覚をもっている人は、仏の救いを求めます。だから、悪人こそが救われるのですね。そのことを本書では、「悪人を救うという願いを聞いて、まさに私こそ悪人であったと知らされる目覚め」と表現してみました。

ところで「悪人正機」という立場を、平安から鎌倉期における社会的状況でとらえる視点もあります。当時、悪人とは非差別者・非抑圧者を指す場合があったからです。親鸞聖人もそのことは視野に入れておられ、猟師や漁師や商売人など今まで悪人とされてきた人々へ心を寄せていろいろなことを語っています。「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり(道端にある石ころのような私たち)」という『唯信鈔文意』の文章は有名です。鎌倉時代の百科辞典である『塵袋』には、「悪人とはエタ・非人のこと」と書いてあるらしいです(@河田光夫)。悪人正機の教えは、そのような従来の宗教・仏教が相手にしない傾向にあった人々にとって、信心の軸を形成して生き抜く力となったことでしょう。

質問10:「救われる」って、どうして救われるのでしょうか。

Q:「救われる」って、どうして救われるのでしょうか。
私の母は「足をすくわれるんだ」と上手いやら辛辣やらなことを言いますが…。
                    (大学生Gさん)

A:うまい。山田く〜ん、Gさんのお母さんに座布団一枚もってきて〜。

 内田先生は本書の中で「救いは霊的次元のこと」と書いておられます。確かに「救われる」とは、宗教体験の領域でしょう。いわば、「向こう側から開ける世界」をリアルに実感する体験です。

 良寛さんは、「災難に逢う時節には逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法なり」と言いました。仏教が目指す安定した心身の状態では、「生も死もわずらいなし」とさえ語られます。こういう言葉を聞くと、まさにこの人は救われているなぁ、と思いませんか。

 Gさんのお母さんが言うように「足元をすくわれる」のは、自我を満足させようという方向に宗教を利用しようとして、その落とし穴にはまった状況のことです。のどが渇いたときに、我慢しきれずに海水を飲むようなものです。

 何かにすべてをまかせきることができたとき、何かに無条件に受容されたとき、人は救いを実感すると思います。

質問11:今、『火の鳥』を読んでいるのですが…

Q:今、『火の鳥』を読んでいるのですが、手塚治虫の宗教性ってどんなふうなのでしょうか?
                    (長野県 K.Mさん)

A:手塚氏はおそらく世界で最もよく「マンガの記号性」を理解していた人だと思います。日本マンガ文化がこれほど成熟したのは、そのことと無関係ではありません。マンガの宗教性については、機会があればあらためてお話したいテーマです。

 さて、手塚氏の作品に底流している宗教性にはどんな特徴があるのか、手塚治虫研究に造詣が深いFさんと対話してみましょう。

釈「手塚氏の宗教性といえば<個が全体に回帰する>という語りが目につきますね。

  例えば、<死ねば大いなる生命に帰っていくのだ>というものや、

  <すべての生命はつながっている>といったメッセージなどが特徴的じゃないでしょうか」

F「はいはい、確かに。

  ただその生命は<動物・植物・昆虫などすべての生きとし生けるものがつながっている>

  と語るところがポイントです」

釈「なるほど、そういえば手塚氏は昆虫大好き少年だったんでしたね」 おしまい…。

 ちなみに、私が子供の頃、少年マンガ雑誌に載っていたのを読んだのですが、「もし生まれ変わったら何になってみたいですか?」という質問に対して、手塚治虫氏は「お坊さん」と答えておられました。

質問12:阿弥陀堂より御影堂(ごえいどう)の方が大きいのはなぜですか?

Q:阿弥陀堂より御影堂(ごえいどう)の方が大きいのはなぜですか?
                    (長野県真宗僧侶・F原氏)

A:うわぁ、きっつう。この方、わかってて皮肉で質問されているんじゃないでしょうねぇ。なんだかこのコーナー、私をだんだん窮地に追い込んでいってないですか?

  確かに浄土真宗の教義に立脚するならば、親鸞聖人をおまつりする御影堂よりも、ご本尊である阿弥陀仏をおまつりする阿弥陀堂のほうを重視すべきはず。なのに、御影堂のほうが圧倒的に大きくて豪華なのであります。これは西本願寺だけではなく、真宗各派の本山もその傾向にあります。

 これは「宗派」というセクトが抱える悩ましい矛盾ですね。なぜなら浄土真宗が浄土真宗として成立するには、親鸞聖人というパーソナリティーが不可欠だからです。なにしろ阿弥陀仏信仰だけじゃ、他の浄土仏教教団との差異化ははかれませんから。こういうのを民俗学では「祖師信仰」とか「開山信仰」と言います。あらゆる宗教教団に見られる形態であり、ご存知のように親鸞聖人のことを「御開山(ごかいさん)聖人」と呼び習わすほど真宗教団においても根強いものがあります。やはり私たちは、親鸞聖人をはじめとするさまざまな先達のパーソナリティや言葉を通して、阿弥陀仏の願いをリアルに感じることができるのだと思います。

 というわけで、御影堂が大きいのは教団の存在意味を提示しているから、と言っていいんじゃないでしょうか。まさにあの巨大な御影堂は、共同体ネットワーク(末寺や講や同朋)を包括する組織を支え表現しているシンボル。宗教的シンボルを理屈で簡単に否定することはできない、というのが私のスタンスです。

質問13:真宗で恋愛を語ろうとするとどんな風になりますか。

Q:真宗で恋愛を語ろうとするとどんな風になりますか。
                    (哲学者・N先生)

A:真宗は出家主義形態を解体した仏教ですので、恋愛に対してもごくノーマルな人間の営みとして認識していると思います。でも、真宗で恋愛を語る場合、結婚や家庭生活を前提にする傾向が強いですね。ほら、親鸞聖人と恵信尼(えしんに)さまとがお互いに相手を菩薩だと思って家庭生活を営んだ、というエピソードがあるじゃないですか。ああいうイメージですね。もし真宗を足場に恋愛を語ろうとするなら、「ありのままの姿を見つめる」と「相手の声を聞く姿勢」あたりがカギになるのではないでしょうか。

ところで、第四回で「恋愛は自己愛と錯覚だ」と書いたら、何人かの方から抗議されました。特に学生さんあたりは恋愛にピュアな幻想をもっていたりする人がいるので、この文章は評判が悪かったです。狙い通りじゃ、わはは。あのね、恋愛はピュアでもなんでもないです。できるだけ早く「それは幻想だ」と気づいてください。でも幻想だからどうでもいいとか意味ないとかつまらないことだなどとは言ってませんよ、私。逆です。幻想だからこそ、それぞれが大切にしなければならないのです。幻想だからつねにケアし続けないと、簡単にこわれちゃうんですね。だから、恋愛は自己愛の投影であることをしっかり自覚した上で、パートナーとともに幻想を育む姿勢を大事にしてくださいね。

質問14:仏さまって本当にいるんですか?

Q:仏さまって本当にいるんですか?
                    (小学5年生・Sさん)

A:仏さまがおられるかおられないかは、Sさんが決めるんですよ。仏さまがおられる生活とおられない生活、Sさんはどちらを選ばれるのか、私はすごく興味があります。そして「私の人生に仏さまはおられねばならない」と生活されている方にとって、間違いなく仏さまはおられます。

質問15:仏教について不勉強すぎて、怖くてお寺に行けません…

Q:仏教について不勉強すぎて、怖くてお寺に行けません。
どうしたらいいんでしょうか。
                    (R(25)さん)

A:禅のお話で、「お茶で満たされているお茶碗に、さらにお茶を注いでもあふれてしまう」というのがあります。生半可な仏教の知識で頭を満杯にするよりは、かえって心を空っぽにしてお寺を訪れたほうが良い場合だってあるということです。ですから、不勉強のままお寺に行ったら怒られる、なんてことはありません。どうぞお気軽にご利用ください。お寺というのは、死んだときだけ利用すると高くつきますが、普段から利用しておけば割安です(笑)。ぜひ住職さんやお寺の奥さんなどと仲良くなって、いろんなお話をしてみてください。たいていのお坊さんはお話好きで、誰か仏教の話を聞いてくれる人はいないかとウズウズしていますから、喜んで仏法を伝えてくれることでしょう。

でも「お寺が怖くて入りにくい」という印象はあるでしょうねぇ。特に都市部では、あまり「地元のお寺」や「お寺とのなじみ」などはありませんから。近年、東京で青松寺という曹洞宗のお寺で「仏教ルネッサンス塾」というこれまでの仏教の枠にとらわれない集まりが開催されていて、若い世代を中心になかなかの賑わいだそうです。塾長は東京工大の上田紀行先生で、この方は『がんばれ仏教!』(日本放送出版協会)という本の中で、「ほんとは、仏教って、お寺って、すごいおもしろいはずだぜー。」と、仏教界への熱烈エールを送ってくださっています。

青松寺さんみたいに檀家でなくても参加できる法座や仏教講座を開いているお寺もけっこうありますし、もし一般寺院に入っていきにくいなら(確かに何の縁もないのに入っていきにくいかも…)本山や別院といった各宗派を代表するようなお寺を利用するのも良いかもしれません。そこでは誰もが参加できる開かれた場や機会が設けられていますから。西本願寺でも、関連施設などで常にさまざまな仏縁のお座が催されています。参加に際して、必要なものは特にありません(お念珠くらいは持って行きましょうね)。聞こうとする真摯な姿勢があれば、それで充分です。講演会やカルチャーセンターなどで仏教のお話を聞く場合とはまた違った趣があると思います。

質問16:変な質問あれこれ

Q:
1.あみだクジは、阿弥陀如来からきているのですか?
2.しかもそのあみだクジは、一般に縦線に横棒を引いて、当たりを決めると言うものですが、その図式は阿弥陀如来となにか関係があるのでしょうか。
3.「あみだばばあのうた」を作った桑田佳祐は、そのことを知っているのでしょうか?
4.あみだばばあと言うくらいですから、「あみだ」とは、女性をかたどったものなのでしょうか?

                    (新社会人Fさん)

A:だんだんヘンなのがくるようになってきて、うれしいかぎりです(涙)。

 1と2…「あみだクジ」という呼び方に関しては、「阿弥陀仏の救いが平等であるように、公平なクジだから」だとか、「かつては中央から八方に線を引いたクジであって、その蜘蛛の巣をはったような図形が、阿弥陀仏像の光背(阿弥陀仏の身体から放たれている光)に似ていることからこの名がついた」などという話を聞いたことがあります。

 3…桑田佳祐がこのことを知っていたかどうかはわかりません(当たり前だ)。しかし「あみだばばあのうた」の歌詞から想像しますに、桑田佳祐は「あみだクジ」と「阿弥陀仏」とを関連づけて考えていたとは思えません(普通は考えんだろ)。

 4…あのね、「あみだばばあと言うくらいですから」ってね…、「あみだばばあ」は仏教用語じゃないぞ。明石家さんまが変身するキャラなんですから。

ちなみに、仏は性別を越えた存在として語られますので、(具象化する場合は釈尊をモデルとはしておりますが)男性とも女性とも区別し難い姿で表現されることがほとんどです。あ、だからといって「♪男と女の間のばばあ〜♪」という歌詞は仏を指しているのではありませんからね(汗)。

2005年10月07日

インターネット持仏堂の逆襲

【再開のことば】

しばらく空寺状態だった持仏堂ですが、あまりホコリがたまってしまうようなことでは住職失格です。きちんとお掃除をいたしまして、再び開門させていただく運びとなりました。

さて、せっかくの開門ですので、みなさまにもお立ち寄りいただけるよう、ご質問をお受けしたいと思います。
それに対して私・釈をはじめ、大家である内田樹先生が、思いつくままお話をさせていただくというスタイルにしたいと思います。「こんなこと聞いてもいいのかな?」などと構えず、どうぞお気軽にご利用ください。

実はこれまで、本願寺出版社のホームページ内に『インターネット持仏堂1・2』のPRとして、「教えて!釈住職」というコーナーを設けておりました。
第七回まで続いていたのですが、今回、そのコーナーをまるごとこちらへ移転したような格好になります。 (大家からひとこと:これまでのコーナーでのご回答は、このエントリの下に貼っておきました)


※もちろん、浄土真宗に関するご質問にも応答させていただいておりますが、あくまで釈個人の思いや理解です。宗派の公式見解や模範解答ではありません。ご了承ください。

【ご参拝に向けて】

ご質問を頂戴する上での決め事を箇条書きさせていただきます。決め事といっても、そんな大仰なことではございませんが、円滑に「持仏堂」を運営するためご協力の程をお願い致します。

・メールの件名は「インターネット持仏堂~教えて」として下さい。

・おひとりにつき1問とし、ご質問が長文である場合にはこちらで若干の文章校正をさせていただく場合がございますのでご了承ください。
また、いただいたすべての質問に目を通させていただく所存ですが、あくまで回答は「インターネット持仏堂」上での発表とさせていただき、掲載の有無を含め個別の返信はいたしませんので、よろしくお願い致します。

・個人データは、詳しくお送りいただいたとしても、「名前(ペンネームやブログネームでも可)、性別、年令」のみ掲載させていただきます。

・解答者は原則的に釈住職ですが、質問の内容によっては、大家の内田先生(もしかすると、逗留されているお客人の場合もあるかも)にも参加していただきます。

・今回の開門期間は、ひとまず10月いっぱいの予定です。(と書きましたが、どんどんご質問がくるので、開門期間はしばらく延長することにいたしました)

・前回のように「持仏堂」が書籍化することがあるやもしれません。もし、そうなった場合でも、ご質問者の著作権はご質問とともに委譲していただくことをご了承下さい。

ご参拝はこちらまで  →jibutsu@tatsuru.com

2005年10月11日

質問17・愛人って・・・

Q:

30歳女性です。

真剣に悩んでいるのでアドバイスをいただけることを切に願っています。

結婚を約束している彼が妻帯者なのです。
先日彼が奥さんに離婚をきりだしたところ、一人娘が小学校を卒業するまでは、離婚も別居も合意できないとの答えだったそうです。
2007年の春ということです。

私達二人は、お互いの存在に深い安らぎや力がみなぎるのを感じるので、結婚は必ず実現させたいのです。

とはいえ、今の奥さんや娘さんの傷が最小限に済むようにもしたいのです。
偽善的かも知れませんが、みんなが納得できる形を見い出したいのです。

再来年の春まで、私はどのような心持ちで過ごせば、いいのでしょうか?

愛人という立場は好きじゃないし、自分の存在が小さな子供や長年彼を支えてくれた奥さんを傷つけていることを思うと、つらくなります。

でも、あきらめたくないのです。
彼を幸せにすることこそが、私の義務のように思えるからです。
そのことで、私も幸せになれる確信があります。

ちなみに、お嬢さんとは彼と一緒に5、6回は遊んでいて、彼抜きで私の部屋に来てくれたこともありますが、二人の関係は話してません。

厳しい言葉でも結構です。
どうかお導きくださいますよう、お願いします。

emi

A by Uchida:

こんにちは。ウチダです。

今回は、「大家」に回答ご指名ということですので、私がとりあえずお答えさせていただきます。
釈先生もきっと別の立場からお答えくださると思います。

さて、離婚についてのお訊ねですが、「こうすればいいよ」という「一般解」は離婚についてはありません。
夫婦が離婚にいたり、家庭が崩壊するに至るには余人の計り知れない無数のファクターが関与していて、どれが決定的なファクターだったのかを言うことはほとんど不可能だからです。

離婚について横から口を出してコメントすると、たいていの場合「他人にはわからないよ」という拒絶のサインが示されます。
ほんとにそうですよね。

ですから、私は離婚については「ご自分の思う通りになさってください」と申し上げることにしています。

というわけで、ご質問への回答は「お好きになさってください」です。

でも、これでは回答になりませんので、すこし「おまけ」の話をします。

離婚について私が知っている唯一の経験的教訓は、「失敗する」仕方をスマートにする方法はある、ということです。

離婚で傷つくというのは(当事者の場合ですけど)、「自分が離婚で終わるような結婚をしてしまったこと」の敗北感のもたらす痛みもありますけれど、それと同時に「自分が離婚問題を適切に処理できないような、決断力や状況統御能力のない人間であること」についての自己嫌悪もあります。

長くその人の傷となって、その後の生き方に影響を残すのは、しばしば「失敗した」ことの経験よりもむしろ、「自分は〈失敗すること〉にさえ失敗した」という自乗された失敗の記憶の方です。

「失敗処理」そのものは「失敗」とは「別の問題」です。人間は「〈失敗すること〉には成功した」というような次数の高い行動を選択することができます。

この場合は、どうやって「てきぱきと」問題を処理するか、というたいへんシンプルでビジネスライクなことに頭を使うことになります。

すでに「離婚すること」を前提としておいて、その上で生じる諸問題についてネゴシエイトするというのはとてもよいやり方です。

というのはこういうふうに議論を立てると、「話をややこしくする」ことで誰も状況を動かせない状態を作り出すことを回避できるからです。

話をややこしくする人間のねらいはたいていの場合「現状維持」です。

こういう公的な場所に「離婚話」を持ち込むというのは、「離婚はすでに既定事実である」ということを内外にアナウンスするたいへんに効果的な方法ですから、あなたはすでに着々と手を打ちつつあるというふうに言ってよろしいかと思います。

お手紙だけ読むと、先方の奥様は「結論の先送りという結論」という複合技を出す方のようです。
こういう方は「あなたと再婚しないという条件でなら離婚に同意する」というような複合技(リンケージをふやして決断を困難にするという戦略ですね)を将来的にお使いになる可能性もありますので、その点にはご注意が必要かと思います。

問題そのものをある種の「外交取引」のようなものとしてクールかつリアルにお考えになることを私はお薦め致します。

ろくなお答えになってなくて、申し訳ありません。

お幸せになってください。

A by Shaku:

釈です。大家さんからのお答えがありましたので、もう私がお話する必要もないとは思いますが。

そもそも今回は「関係性」のお題なので、emiさんがどういう人かも知らず、当事者(この場合はemiさんだけではなく、彼と彼の奥さんや娘さん)それぞれの思いや覚悟を知ることなしに適切なアドバイスはできません。

ただ、emiさんがおっしゃるように、それぞれができる限りよい関係性を維持したままで話を進めていきたいというのであれば、重要なことは「モノゴトの手順」と「自分自身でなんらかの線引きをする」ことだと思います。

まず離婚は再来年の春まで待ちましょう。今のemiさんには気の遠くなるほど先の話に感じるかもしれませんが、彼と彼の家族そしてemiさんにとっても必要な手順ではないかと思います。
そのかわりというわけではありませんが、来春あたりから彼は家を出て家族と別居なさったらいかがでしょうか。
しばらくの別居状態を経て離婚へと進むわけです。その際、彼はきちんと一人暮らしをして、emiさんと一緒に生活を始めるのは離婚後のほうがよいと思います。

と、まあ、もっともらしく書いておりますが、これらの提案には何の根拠もありません。当事者それぞれがなんらかの線引きをしませんか、という話です。

ところで、文面から推察するに、emiさん自身、自己嫌悪や罪悪感に悩まされているようです。もしかしたら内田先生にきつく叱ってもらいたいのでは? また現状へのあせりと不安も強いとお見受けします。ここらで一度、深呼吸をして、力を抜いて、楽にら~くに。リラックス、リラックス。なるようになりますから。

仏教ではなにごとにつけても「執着が苦しみの原因」と考えます。いざとなったらあんな男くれてやらぁ、というくらいの気持ちもどこかにもってみることが不安を軽減する道です。

2005年10月19日

質問18 座禅の意識状態について

Q:
数年前、世間と交わらずに自室で座禅をしていて、ある程度成果が出たのですが、未だに蒙昧で、色んな怨恨が頭から去りません。
そういうものなのでしょうか?
それと明らかに座禅の影響であると思うのですが、日常生活で不意に帳が降りるように、瞼が閉じて頭に何らかの抑制的な力が加わるのですが、そういうことは既に知られていることなのでしょうか。座禅の意識状態が日常のそれに身体的な影響を与えるということについて御意見を賜れると幸いです。
(ちなみに今は社会の一員として過ごしております。)

                    (山田山男さん 26歳 男)

A:
ここはまず禅師にご登場願いましょう。私が何かとご教示いただいているN禅師です。

S(釈)「山田山男さんは、数年前から自室で坐禅をしているがいろんな怨恨が頭を去らない、と相談されていますがいかがでしょうか」

N「喝ーっ! 何のために坐禅をしているのか!『何のために』を忘れろ!!」

S「は、はあ、どうもすみません(うぇ~ん、山田のおかげで怒られちゃったよ~。)」

N「坐禅の状態で自己規制が弱まると、それまで抑制されていた負の感情が湧き上がる事が予想されますな。この質問はそれと近いものかもしれませぬ。その場合は、むしろ、お念仏がよろしいのではないですかな。」

S「釈尊が『仏教を学んだ者と学ばなかった者との違いは何か。仏教を学んだ者は第二の矢を受けないのだ』とおっしゃっておられます。山田さんがおっしゃるように怨恨の思い(第一の矢)は湧き出るものの、そこから次のステップ(第二の矢)である『復讐してやる』とか『何かで憂さ晴らしをしてやる』といった情念は少しずつコントロールされていくのではないでしょうか」

N「ふむふむ、そんなところじゃろう」

S「もうひとつ、この方は日常生活で不意に帳が下りるような感覚等が現れるようですが、こちらはいかがですか?」

N「わしの目にはそんなけったいなシャッターなどついておらんのでわからん」

S「は、はあ、はあ、そうですよね(うう、禅僧とのコミュニケーションは難しいのだ…)」


N「ま、そんなことが起こっても全然不思議ではない。しかし、『日常生活と坐禅では、心の使い方が逆になる』ということを知っておく必要はあるな」

S「私も禅によって、日常生活の光景がすべてひっくり返って、このまま社会適応できなくなるのでは、という不安に陥ったことがあります。でもそんなのは生理現象であって、当然起こりうるのだ。捨てておけ。ときちんと指導されたので大丈夫でした。これをなんかものすごい神秘体験と勘違いするとおかしな方向に行ってしまいますよね」

N「その通り。人間の認識などええ加減なものじゃからな」

S「禅を通して認識の枠組みが揺さぶられると、身体にもさまざまな影響がでる。しかし日常を一歩も離れていないと自覚することが肝要、ですね」

N「本来で言えば、坐禅への疑問は、坐禅をしながら、禅僧に直接尋ねるべきである。自己流の禅もいいが、その手のトラップに足元をすくわれるのでは、ドラッグの体験と大差ないわい。おまえさんも、知らないことは『知らない』ということが、質問者に全うから応じることになるということを忘れんほうがいいな」

S「お、恐れ入りました。肝に銘じます…(ううっ、山田ぁ…、お前のおかげで…)」

質問20:男の人のことがさっぱりわかりません (会社員・34歳・女)

Q:
実は、男の人のことがさっぱりわかりません。
9年間お付き合いをしている方がいるのですが、今後のことをうまく話ができませ
ん。
彼はある夢を持ち、自己実現に邁進しています。
一緒に生活したり、これから二人で、いい関係を築いていきたいと思っています。
が、今後の話をしようとすると、うまく話し合えないのです。
どうも、私の手は借りたくないと思っているのでは?というような言動なのです。
例えば、一緒に住むにしても、先立つ物が必要になってきます。どちらかといえば、
私のほうがお金は自由に使えますので、それを元に、さて、どうしようか…となる
と、それはできないと言い張ります。
私に迷惑をかけまいとしているのでしょうか?
男の人にとって、自己実現と、金儲けは、近い位置にあるのでしょうか?
私なんかは、自己実現なんて、いろんな場所に転がっているものだと思っているので
すが…。
何度も、話し合おうとしたのですが、彼が、現状(最近はお金がないこと)の言い訳を
し、私は黙ってしまうことが続いています。
言葉を持たず、常に黙ってにっこり見つめ返す安らぎを求められているのでしょう
か?
彼は母子家庭ですので、子どもの時に目の前にいた大人は、すべて一人でしていたそ
うです。
お互いを認めて協業、分業したいのです。
一人で、すべてを成し遂げることが、自己実現なのでしょうか?
一人ですべてのことをしたいのならば、そう言ってくれれば、じゃあ今後の人生設計
は別々に、ということで、不本意ですが、前に進める気すらしていたのです。
たぶん、彼は、お互いの生活は別々にして、タイミングが合ったときに、会えばいい
と思っているのだと思っていました。
それならそれで、そう言ってくれればいいのに。
しかし、両親の前では、結婚するつもりですと、断言していました。
事前に何の話もありませんでしたので、私には寝耳に水で、「あぁそうだったの」と
驚きましたが、もしかしてそれを口にすると傷つくのではないかと思い、黙ってまし
た。
なるだけ、彼の自尊心を傷つけずに、今後のことを話し合うには、どうすればいいで
しょうか?

A:

こんにちは。恋愛専科のウチダです。
どうして釈先生はこういう質問には答えないで、僕の方に送って来ちゃうのでしょう。
まあ、釈先生の場合は家庭もおありになることで、「私の経験からしても・・・」というようなうかつなことを書いた場合に、家庭内争議の遠因ともなりかねないという事情もおありになるのでしょう。
私の場合は、どれほど非道なことを書こうともご叱正くださるような方がおられないので、どんな質問も「どんと恋」です。

さて自尊心が強くて、内心を打ち明けない男のことがわからないというご相談です。
「内心を打ち明けない男」が何を考えているかは、私にもわかりません(ふつう、だれにもわからないですよね)。
何も言わない以上、「あなたの同意や協力を得なければできないこと」は考えていないとみなしてよろしいでしょう。
もし協力が必要なら、そのプランを実現するためには、根回しとかネゴとかバーター交換とか、あなたを相手にいろいろな事前工作が必要ですからね。
ということは、あなたの彼は「自己決定」したい人で、「ネゴシエイト」するのがきっと苦手な人だと思うんです。
ひとりで決めて、ひとりで責任を取ることの方がいい、という人がいます。
他人をまじえて協議し、他人の意向をあれこれ汲み取って妥協したり迂回したりすることの代償に、決定がともなうリスクをヘッジすることよりも、ひとりで決めて、ひとりで責任を取ることの方を選ぶという人は決して少なくありません。
というか、現在ではむしろそういう方たちの方が多数なのかもしれません。
同意形成に多くの人間を巻き込むのには手間ひまがかかりますし、簡単に思い通りにはゆきません。
でも、ネゴの過程で思いがけないアイディアに触れたり、気づかなかったアプローチを開示されたり、ということだってあります。
それに他人といっしょに行う仕事の方が当然規模が大きく、社会的影響力も大きいわけです。
何よりも、それがもたらすベネフィットもリスクもみんなで分かち合うことができる。
苦労というのはひとりで引き受けるからしんどいので、分担するとどうということはないんです。
どう考えても、共同作業の方がいいと思うんですけれど、ネゴシエイトが「キライ」という人は損得抜きで、「キライなものはキライ」なんです。(自分の意見を他人とすりあわせたり、ひっこめたりすることを「屈辱」とか「敗北」というふうに感じちゃうんでしょうね)。
彼はきっと「自分らしくなくなる」ことに対する恐怖がとても強い人なんだろうと思います。
それはそれだけ彼が死守しようとしている「自分らしさ」が脆弱なものだということなんです。
というわけで結論を申し上げますが、彼があなたに求めているのはおそらく慈愛深くすべてを許す「母親」であって、社会的活動における「パートナー」ではありません。
あなたがもし「イーブン・パートナー」でありたいと望んでいるなら、この関係を持続させることはちょっとむずかしいかもしれません。
でも、世の中には「母親」役を黙々と演じることで幸福になれる人もいます。
そういうのはその人の「傾向」の問題であって、主体的決意でどうこうできるものではありません。
もし、あなたに「母親的傾向」があるなら、それを強化するというのがふたりが閉じられた世界で幸福になれる確実な道であるように思われます(対「開かれた世界」的にどうなるかはわかりませんけど)。

2005年10月21日

質問19 神と仏は言葉の違い?

Q:
神と仏は言葉の違いですか?
神は、自分の中にある信仰心(信仰と書いてよいのやら?)のなせる業であり石ころでも、蛇の皮だって 自分自身が思い込めば神になれるはずであると思います。 神とは思う心であって、姿かたち現象に有らず。仏 死んだら仏になるのだと思っていました。
だから御先祖さまが大事だと……死んだ人を「仏さん」と言いますよね?
その総元締め(笑)が真宗では「親鸞さま」。輪廻転生は、この世で徳を積んだ人だけがまた人に生まれるのですか?この世に生を受けて数週間で逝く命は、あの世より、その数週間だけの修行が足りなかった為と教わりました。その経験をつめばより崇高な魂に成れるのだとも生きとし生けるもの全ての命大切なのに…人間だけが偉いのでしょうか?
私…一週間で死んでしまう「蜉蝣」でも「蝉」でも「蛍」でも良いです。私の幼少の頃からの私見です。これって質問になっていないですね。あるきっかけより内田先生のブログを拝見して「健全な肉体に狂気は宿る」読ませていただきました。
(滋賀県在住 雪音)

A:
 雪音さんのご質問を三つに分けて応答させていただきます。

①神と仏の違いは、【質問5】にも少し書いておりますが、単に言葉の違いだけではなく場合によっては根本的に相違するものでさえあります。ちょっと整理してみましょう。

Ⅰ 神  
1.キリスト教・イスラムの神
万物の創造主であり、唯一無二で絶対なる存在です。この神は何にも依存せず、独立で存在する絶対者です。神は自分の栄光を表現するために、人間を造りました。神は全知全能であり、世界のあらゆることを決定する主体です。
神はすべての原因ですので、神に先んずる原因はありません。つまり、唯一神の存在は因果律に基づかないのです。これぞまさに「絶対」という概念です。
2.世界の神々 
世界中、多くの地域には「土俗多神教のカミ」が草の根のように網羅されています。自然現象(海、風、雷など)を神格化したもの。あるいは、生命活動(怒り、死、愛情など)が神格化したものなどがあります。
実は、仏教にも多くの「神」が語られます。帝釈天とか四天王とか、閻魔大王など。これらは「天」という世界の住人です。ほとんどは、ヒンドゥーの神々です。
 3.日本の神 
また、「日本のカミ」は、「尋常じゃないもの」です。新井白石は、語源的な意味から「カミ」は「上」であると主張しました。また本居宣長は、「カミ」とは「畏敬を感じさせるようなもの」であると考えました。そして、そのようなものは、人間でも自然でもすべて神となるのです。ものすごく勉強できた人、とんでもなく長く生きている木、変な格好をした岩、めちゃめちゃ強い武将、どれもこれもカミとして祀られます。

Ⅱ 仏 
1. 仏陀
仏さま、つまり仏(ぶつ)とは、ブッダ(仏陀)のことです。ご存知のように、「目覚めた人・悟りを開いた人」です。瞑想や限定された生活によって、自己の心身をコントロールし、生きる上での「苦しみ」や「迷い」のメカニズムを解体してしまうことができた人物です。だから、シャカ(ゴータマ・シッダルタ)だけではなく、彼の弟子であるコンダーニャやアーナンダなどもブッダと呼ばれていたようです。
 2.教えをシンボライズした超越的存在
仏教の体系には、教えをシンボライズした超越的存在としての仏さま方(大日如来や阿弥陀仏など)が語られます。これは特に大乗仏教の流れにおいて顕著です。

こうして並べてみると、「Ⅰ-1」と「Ⅱ-1」はまったく違う概念だということができます。この場合、「神」は人とは完全に断絶した存在であり、「仏」は理想の宗教的人格を表しています。
しかし、「Ⅰ-2」と「Ⅱ-2」になると、かなり共有できる部分があります。また「Ⅰ-2」と「Ⅰ-3」も、かなり重なっています。雪音さんがおっしゃっている「神」はこの領域に近いと思われます。また明治の世になるまで、神と仏は区別されない傾向が強かったので(きっちりと区別してきた流れもちゃんとあります)、雪音さんの感覚に共感される人は多いのではないでしょうか。


②確かに「死んだ人」をホトケと呼ぶ習慣があります。そもそも仏陀をなぜ仏(ほとけ)と呼ぶのか自体、「中国で仏陀のことを浮屠(ふと)と表現したことから、それに家(け)をつけた」とか、「解脱する教えだから、解ける(ほどけ)からきた」など諸説あります。
 では、死んだらみんなホトケだ、という根拠はなんなのでしょうか。柳田國男は死者に供える食べ物を入れる「ホトキ」という素焼きの器物からきているのではないか、と推理しています。
 でも私は、浄土仏教が説く「念仏する人はすべて死ねば浄土に往生する。そしてただちに成仏(=仏と成る)」という理念が大衆化した結果、という側面のほうが強いと思っています。なんといっても、浄土仏教は大衆信仰の勇ですから。
 また親鸞聖人は「浄土で仏となって、またこの世に戻り、人々を救おう」という意思をもっていました。これを「還相回向(げんそうえこう)」と言って、真宗教義における大きな特徴となっています。
 ですから、「死者はただちにホトケ(仏)と成る」という文脈は、仏教の高い思想性や倫理性や実践性をかなり損なってはいるのですが、死の受容・死の平等性・死の尊厳を保証する機能も果たしていると思います。


③最後に、この世で徳を積んだ人だけがまた人に生まれるのか、というお話です。輪廻転生の宗教文化は一様ではありません。でも仏教などでも語られる三界や六道では、最も徳を積めば、「天」に生まれて神となります(Ⅰ-2参照)。でも、神もいずれは寿命が尽きて、また輪廻しなければなりません。寿命が尽きるときの前兆が「天人五衰(てんにんごすい)」というやつです(興味があれば調べてみてね)。で、神に生まれようが、虫に生まれようが、獣に生まれようが、結局は輪廻から逃れられないのでこれはある意味「限りない苦しみ」である、というわけです。だから輪廻からの脱出(=解脱)を目指すという宗教形態が発達します。解脱は人間に生まれたときにしか成し得ないので、人間に生まれたということはまさに千載一遇、いや気の遠くなるような確率でゲットしたチャンスなのです。この機会を逃しては、今後いつまた解脱のチャンスがあるのかは想像もつきません。
 こうして考えてみれば、輪廻転生という概念は、「生命のつながりを自覚する装置」であり、「とても無為に一日を過ごすわけにはいかないという自覚を促す装置」でもあるんですね。

2005年10月22日

質問21呼吸すること

Q:

私は長年、スポーツクラブに通い、エアロビクスを愛好しております。しかし、日頃のケア不足や仕事のストレス等で、気がついたら、肩甲骨や骨盤が回旋できず、猫背ぎみで骨盤が歪がみ左足がスムーズにあがらず、歩行も引き摺りぎみに。これは、かなりヤバイぞ、この年で…。人間、年を重ねても、美しく、背筋の通った人間でありたい。と、アンチエイジングを目指していたのでは…。そして、ピラティス、ヨガ、ダンスミックス(エアロビに体幹部を中心とした動き、ダンスの要素を多く取り入れたもの。)等、体幹部の強度と柔軟性を高めるエクササイズに真剣に取り組み。下腹部の腹筋、丹田を意識すること。胸骨を開き呼吸することで、身体を弛緩させパフォーマンスすること。徐々にではありますが、骨で呼吸する開放感。そして、その呼吸から生まれる意識的な深度、耐性がわかりはじめてきたような気がいたします。まだ、入口ですが…。
今まで、人間としての機能、「呼吸をすること。」を見つめてこられなかったのが悔しく。身体感受性を磨くことで、いろいろな想念が生まれてゆく。すごく気持ちがシンプルになれ、年を重ねることが彩りを深めるとこなのではとも、感じてもおります。
そこで、内田先生に質問ですが、呼吸の質とは、どうお考えでしょうか?また、合気道やダンス、禅やヨガの呼吸の違いは、どうなんでしょうか?御回答の程、お願いいたします。
(ペンネーム/sabrina 45才 女性)

P.S. 「私の身体は、頭がいい」から入りましたので、仏文の先生とは、思いませんでした…

A:

こんにちは。
ウチダです。
呼吸についてのご質問、知っている範囲でお答えします。

合気道では呼吸はたいへんたいせつな稽古法で、稽古全体の土台というか骨格をなすものです。
合気道の呼吸では「酸素は肺に、気は神経に」と言われます。
いわゆる「吸酸除炭」の呼吸と同時に、それとは別の境位で、宇宙の気を神経を通して全身に受け容れるのが武道的な呼吸の要諦とされています。

現在の私自身の理解の程度で申し上げると、呼吸で一番大切なのは「リズム」です。

呼吸は「リズム発生」の原器のようなものだと考えています。

私たちの世界経験は圧倒的に視覚情報中心に形成されていますが、視覚は空間的表象形式によって世界を一望俯瞰することをめざします。
「すべてが見える」というのが視覚的な世界経験の絶頂なわけですが、ここには重大なものが欠落しています。
時間です。
視覚情報は本質的に無時間モデルなんです。

呼吸は「リズム発生原器」であると上に書きましたが、それは「時間発生原器」とも言い換えられます。

過度に脳化された身体経験からは時間が捨象されます。

そこに時間を取り戻すのが呼吸のはたらきではないかと私は思っています。

「過度に脳化された身体経験」というのは中枢的な身体経験と言うこともできます。
脳が身体を中枢的に統御し、完全な指揮下に置く状態を理想とするのが、中枢的身体運用です。

それに対して、身体の各部がある程度自律的なシステムを作り、それがゆるやかに結合したり離れたりするのが非中枢的身体運用です。

システムというのは、自律的な複数のシステムが非中枢的にネットワークを形成している方が安全です。

中枢的システムは何も変化しない無時間的な静止状態を理想とします。非中枢的システムは絶えず無数の予測不能の変化が起きる状態を理想とします。

呼吸というのは、中枢的に統御されている身体システムを非中枢的なモードに切り替えるための「きっかけ」を与えるもの。

私はそんなふうに考えています。

へんてこな話ですみません。お答えになっていたでしょうか?

釈先生からの「追記」
禅の呼吸法についてだけ、少しお話させていただきます。禅には数息観(すそくかん)という「呼吸の数を数える瞑想法」があります。比較的初歩的な技法です。坐禅は、身体を整える「調身」、呼吸を整える「調息」、心や精神状態を整える「調心」という手順に沿って行われます。調息の際、腹式で呼吸しながら吐く息を数えます。「い~ち」「に~」…だいたい一回で20秒くらいの目安でしょうか。息を長~く、ゆっくりと吐く。完全に吐ききる。吐ききった反動で、息を吸う。呼気中心ですね。十まで数えたら、また一に戻ります。
自律神経というオートマチックなシステムの支配を受けていながら、同時に随意的コントロール可能な呼吸。古来、瞑想や心身の調整に重視されてきました。その機能と特性を生かすという点は、武道や修法、(おそらく)ダンスや歌唱などにも共通しているのではないでしょうか。

2005年10月25日

質問22 アリを踏むのが趣味でした

Q:

釈先生・内田先生
「インターネット持仏堂」の質問コーナーを楽しく拝見させて頂いておりました。
逆襲の再開を喜んでおります。
さて、早速相談がございます。
私は3歳ぐらいの頃、アリを踏むのが趣味でした。
よく一人で家の裏に出かけて行っては、アリを黙々と踏み続けたものです。
アリ踏みをほぼ日課にしていましたので、かなりの大量虐殺をしたと思います。
勿論当時は一片の悪気もありませんでしたが、今思い出すと、「本当にひどいことをして悪かった」という気持ちと共に、取り返しのつかない重大な罪を犯したのでは、という恐れを感じます。
当時のアリに対して今更「申し訳ないから償いたい」という気持ちは、どこへどうぶつければ良いでしょうか。
また、仏教の事は良く判りませんが、出来れば来世は解脱したいと思っています。
しかしこんな大罪を負っていたらそもそも無理でしょうか。(それどころか地獄行き決定でしょうか。)不安です。
(¥さん・女・28歳)

A:

 うむ、それは地獄行き決定ですね。間違いありません。というのはウソです。
¥さんが地獄へ行かれるのか、天へと転生されるのか、はたまた無に帰されるのか、私にはわかりません。それは私たちが理解できることではありませんし、コントロールもできません。私たちができるのは、今、私自身の行為を点検することだけです。そして死後のことは「おまかせ」。
このご質問で大切なポイントは、大罪を背負っているという自覚とそれに対する恐れです。ご自身の行為を見つめなおそうという姿勢はとても倫理的です。もしあなたの目の前に法然上人がおられたなら、「その身のままでお念仏しなさい。まちがいなく浄土に往生します」とおっしゃるにちがいありません(法然上人は、猟師・漁師・遊女など従来の仏教が切り捨ててきた人々に対して仏道を示された方です)。浄土仏教の人が恐れと不安を抱きながらお念仏されるように、\さんは\さんなりの宗教儀礼を行うことによって「申し訳ないから償いたいという思いをぶつける」のがよろしい。
ところで、よく自分の在り様を点検してみたら、「過去にアリを大量に殺した」行為以外にもいろんなことに気づいて愕然としません? また、過去の行為だけではなく、まさに今、他者を傷つけていることも自覚できるはずです。それなのに、なぜ「アリを殺した」ことが今でも気になるのでしょうか? 仏教の文脈でたどるならば、そこが重要になってきます。もしかしたら、現在\さん自身が抱える問題に関連しているのでは。たとえば、「無垢だからこそ傷つけてしまう」という現象がすごくいやらしく思ってしまうことに対して何か思い当たるところはありませんか? 「なぜ自分はこのことが気になるのだろう」という道筋を遡及してみてください。\さんの生きる力を活性化させるヒントがそこにあるのではないでしょうか。
 蛇足ですが、アリを「個体」としてとらえて、「大量虐殺」などと考えるのは、こちらの勝手な枠組みです。(おそらく)アリには個などなく、種で生存しているので、人間がいくら踏み潰してもアリの種全体から見れば、人間がカに刺されたほどのこともない、と言えるかもしれません。まあ、これも私が勝手に考えていることですが。いずれにしても、種全体から見てみれば、人間がアリに優っていると簡単には言い切れないような気もしたりします。固体の数だとまちがいなく負けてますもんね。

About 2005年10月

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